ランボルギーニ イオタ。 ランボルギーニ(Lamborghini)

世界に一台のみ!?

ランボルギーニ イオタ

販売期間 — の 2人 2ドア 3. 伝説の 闘牛牧場ミウラ の名にちなんで命名された。 ミウラのドアを全開にし、前から見た姿は正に大きく立った角をもつ闘牛のようである。 当時、12気筒の大排気量をミッドシップに積んだクルマは前例がなかった。 のちに各メーカーとも類似のスーパーを登場させた。 の 11月 で発表され、期待のかかった4L V12をミッドに載せたベアシャシーTP400に1966年3月のでボディを架装し発表されるや、当時ベルトーネに就職したばかりのによるその流麗なスタイリングが注目の的となり100を越すオーダーが殺到した。 から生産体制を一応は整えたが、その時点ではまだリアヘビーによるハンドリングの欠点、パワートレーン系が出す盛大なノイズ、冷却性能、などいくつもの問題が解決しておらず、たくさんのバックオーダーを抱えたランボルギーニはしかたなく生産を続けながら改良を加え、最終的にはリアほかに大きな改良がされたSVと呼ばれるモデルが製造された。 当時ミッドシップスポーツはいくつかが市販されていたが、ミウラのような大排気量で横置きのものは初めてで開発は難航した。 シャシー設計およびミウラの開発プロジェクトの発案者は。 ジョット・ビッザリーニ設計のランボルギーニ・1号エンジンをベースにミウラ用に改良したのはで、シャシーの製造はランボルギーニ1号車 350GTV からその製作を請け負っていたマルケージ社である。 開発とモデルチェンジの歴史 [ ] 1965 Turin Salon Miura Chassis -1 シャシーだけのモデル TP400 [ ] 1965年11月にで開催されたトリノ・オートショーにとのみの試作モデルが展示された。 ボディーがなかったばかりでなく、ミウラという名前もまだついていなかった。 当時ミッドシップエンジンはがで発表しているくらいで他のメーカーではが通常だった。 その後は欧州レーシングチームのシャシーとしても使われ、スポーツカーレイアウトの標準となるのはミウラが契機であった。 ある時はTP400をモナコのあるカジノの駐車場に置いた。 非常に珍しいエンジンレイアウトのこの車はボディなしにも関わらずカジノに集まる富豪たちの視線を釘付けにした。 頃合を見計らってエンジンがスタートされると、TP400に群がる人々の数は倍にもなったという。 ミウラ [ ] ダラーラがシャシーの完成度をあげる一方、ボディはスタイリングのみならず製作も担当するという契約でに任された。 当時ベルトーネのチーフデザイナーは前任のジウジアーロから交代したばかりのマルチェロ・ガンディーニであった。 翌1966年3月に流麗なボディを乗せて ミウラが登場する。 スペインのアンダルシア州ロラ・デル・リオにあるミウラ牧場のオーナーであり、著名なスペイン飼育家、ドン・アントニオ・ミウラにちなんで命名された(これ以降ランボルギーニは闘牛関連の車名が続く)。 は点灯時のみ前方に浮き上がるを採用していた。 しかし見た目のエレガントさとは裏腹に、ミウラはまさに闘牛のように荒々しい車だった。 リアカウル開閉の都合上、ボディ後端に取り付けられたはエキゾーストパイプと連結されておらず、この部分が咆哮のような排気音を作り出していた。 またキャビン直後にはと薄いだけで仕切られたエンジンルームがあり、熱気と爆音が容赦なく乗員を襲った。 フェルッチオ・ランボルギーニは「ミウラはショー・カーであり、ランボルギーニの他の車の販売促進に役立てばそれで充分」そして「生産は30台程度」と考えていた。 実際、生産中の車の販売も良くなったといわれている。 市販車として考えられていなかったミウラの当初の完成度は決して高くなかった。 ランボルギーニの公式な区分としては P400、 P400S(単に Sともいわれる)、 P400SV(同様に SVとも)と3つの時代に区切られるが、実際のミウラはその全期間を通じて一台生産する毎に完成度を高めて現在に残る名声を勝ち得ている。 つまり変更は毎回なされ、それは機能改良ばかりでなく誤りの修正もあった。 これはイタリアの小規模メーカーにはよくみられることではあるが、しかし同時期作られたにはこうした修正はなかったといわれている。 SVで385馬力を公称する出力も現実には310馬力前後だったといわれている。 P400 [ ] ミウラ・P400 市販車として販売されるまでに何度も変更を繰り返したミウラだが、顧客が一刻も早い市販を望んだため、ランボルギーニ社はそれに押される形でサスペンションセッティングなどを大まかに決めた状態で生産を開始してしまった。 ドライブトレーンをコンパクトにまとめるためにエンジンとミッションの潤滑系を共有している 初代や殆どのと同じ構造、いわゆる「レイアウト」。 このためにの採用も見送られた。 結果、高速走行時のフロントの落ち着きに欠け、コーナーでは急激なリバースステアに見舞われることもあったという。 販売された最初の一台は1967年3月に製作されたものである。 名前は P400とされた。 Pは"Posteriore" 後ろ でエンジンが後ろに位置していることから、400は排気量4L 3,929cc の意である。 ランボルギーニは当時はまだ実験ができるほどではなかったが、出身の開発テストドライバー、 ()がこれに貢献している。 彼は21歳でイタリアに渡り、ランボルギーニに来る前はやでレーサーとして活躍していたがマセラティで一緒だったジャンパオロが1963年に連れてきた。 外観からはウインドシールドのモールがブラックである点で後のSと見分けられる。 ランボルギーニ・ミウラは扱いにくいことで有名だが、メンテナンス・サービスだけは別で、ベルトーネの設計はこの点がよく考えられていた。 P400は、1967年に約110台 108台とも111台ともいわれる が、そしてまでに計475台が作られた。 P400S [ ] ミウラ・P400S ミウラの絶え間ない改良は続き、12月、370馬力に出力を向上させた P400Sとなる。 "S"は"Spinto"で直訳すると「押された」という意であるがミウラでは「チューンされた」という意味で使っている。 実際は公式発表ほどの馬力は出なかったというが、エンジン強化はドライバーにとってその騒音と熱にさらに悩まされることでもあった。 とが装備され、その後さらにモデル途中でのリアサスペンション強化もなされた。 インテリアはオーバーヘッドコンソールの形状変更にが装備され、もオプションとしてモデル途中で用意されたがあまり効かなかったという。 外観はウインドシールドのモールやヘッドライトのリムがブラックアウトからクロームになった。 P400Sは140台が生産された。 P400SV [ ] SV 左 とS 右 3月、ジュネーブショーでは7,850で385馬力まで出力を上げた P400SVが登場する。 "SV"は"Sprint Veloce"で「より速い車 にチューンされた 」という意味で使っている。 絶え間ない変更により当初の設計目的がこのSVでやっと実現した。 SVはミウラの完成形であり、現在における市場での取引価格もそれを示している。 インテークを大きくし、を変更、カムタイミングも変更してこの出力が達成されたが、リアサスペンションがさらに強化され、リアタイヤは9インチホイールとなりのチンテュラート CINTURATOラジアル を履いた。 そのためリアフェンダーもワイドになってより攻撃的な印象となっている。 外見の変更は、ヘッドライト周りの睫毛 まつげ 状のグリルがなくなりシンプルになっていること 右画像を拡大することで比較できる。 その下のフロントグリルも横長の楕円状だったものが上部中央が前方下部に張り出し、Sより口元を少し窄 すぼ めた感じになっている。 あわせてターニングランプも変更された。 リアのコンビネーションランプにはバックランプが組み込まれた。 この世代からようやくエンジンとミッションの各潤滑系が分離され、オプションでLSDが用意されたが実際に装備されている車は少ない。 P400SVモデルは約150台が生産された。 うち一台はが購入している。 1973年10月製造の最後の車両の車体番号は"4822"で、ミウラ全体の生産台数は750台程であった。 カスタムモデル [ ] Zn 75 [ ] "Zn 75"はたった一台だけ生産された風である。 タルガ風だがルーフやサイドウィンドウはまったくない。 "ILZRO イルズロー Zn 75"または"ILZRO イルズロー スパイダー SpyderもしくはSpider "とよばれることが多い。 ILZROとは International Lead Zinc Research Organization, Inc. :ILZRO イルズロー のことで、非営利団体として産業界におけるおよび利用のための研究開発をおこなう機関である。 1966年当時、ILZROは自動車業界での新たな、コーティング方式、プレート利用、などの技術を開発しており、この新技術をより広めようと、それまでILZROの研究開発に参画していた企業だけでなく、や米国内、さらには世界中の様々な自動車関連企業に対して広く宣伝しアピールするための"ドリームカー"を作ろうとしていた。 ILZROでは執行役員副社長シュレード・ラドケ Shrade Radtke がこれを取り仕切っていたが、彼は、このために、の上級スタイリストデザイナー John Foster にコンサルティングを依頼。 当初、当時斬新なスタイルとして話題となっていたも提案されたが、スタイル変更についてフォード社自身が認めなかったという。 ILZROと米国3大メーカーとの関係も考慮した結果、フォスターは1968年初頭にミウラを使うことを提案する。 ベルトーネはこの提案を大歓迎したが、ランボルギーニのプロダクトマネージャー、 Paolo Stanzani はランボルギーニとして修正することは許可せず、当時すでにベルトーネとモーターショーに向けて製作中だったを使うことを提案した。 エンジンカバーとして設けられていたルーバーははずされ、エンジン部もオープンになっている。 が頭の後方に設けられ、このロールバーとの強化によりある程度、剛性を保っている。 ルーフに装備されていたスイッチ類はコンソールに移され、リアコンビネーションランプも変更された。 このオープン仕様ミウラはその年のブリュッセル・モーターショーに ミウラ・ロードスターとして出品される。 ショーの後、ILZROが買い上げ、ベルトーネはILZROと協力しコンバージョンをおこなう。 パーツのほとんどは一度ばらされ、ILZROの推奨する亜鉛合金製やクローム製に置き換えられた。 された亜鉛合金製のバンパー、ドア、ラジエーター、ステアリングホイール、シフトレバープレート、の亜鉛合金グリル、亜鉛コーティングされたホイールや、 たんぞう 加工のギアシフトノブ、など、キャブレターからスイッチ一つ一つまで50箇所以上が変更された。 通常明るい色を全体に配し暗色でディテールを仕上げ引き締めるというベルトーネだが、このときは金属の輝きを生かすためにボディはパールメタリック調ダークグリーンとなっている。 1969年5月に"Zn 75"として再び発表され、以後、世界各地のモーターショーでの展示、各国の自動車関連会社への貸し出しで"ショー・カー"として常に注目を集めた。 役割を終えた後にかけられたが、生みの親シュレード・ラドケ自身が最高額を出し、彼の個人所有となる。 1980年に一度全面リフレッシュされ、その後ラドケにより1981年2月にボストン交通博物館に寄贈される。 長らくここに展示されたが、博物館でレストアの後、オークションで人手にわたる。 再度オークションでのアルコール飲料メーカー、の手に渡るが、この時はランボルギーニ・ミュージアムを設立するためと発表されていた。 その後、1990年から少なくとも1996年まで日本のヒストリックカー専門店にあった 後、のコレクションにあるはずであると多くの専門家が指摘していたが、白のレザーシートに赤いカーペットのインテリア、淡いブルーメタリックのボディカラーにリフィニッシュされて、2008年のに現れたことで、マツダコレクション説は否定された。 イオタ [ ] 詳細はを参照 ミウラと同じ車体(シャシーは別のもの)を使用した実験車両に「J」車体番号4683(No. 5048という説もある)があり、通称「イオタ」として知られている。 これは当時ランボルギーニ社の車両設計に深く関わっていた技術者のボブ・ウォレスが主導して製造したものである。 この個体についてウォレスは潤滑系統のエンジン性能への貢献度、操縦性の向上、総合的な製造品質を調べたかっただけと語っている [ ]。 また経営者であったフェルッチオは「やりたいなら好きにさせてやれ」といっていたという [ ]。 「J」のホイールはリアが 9インチから 12インチ幅となり、フェンダーもより広げられている。 スペアタイヤとガソリンタンクが前軸後方にあるにもかかわらず重量配分がより改善されている [ ]。 シャシーフロアをはじめとして車両全体に Avional 航空機用アルミシートを使い軽量化を図っている。 固定ヘッドライトにしたのもそのためである。 車重は882kgで、ミウラより360kg軽くなっている。 エンジンは圧縮比が11. サイレンサーは装備されていなかった [ ]。 ランボルギーニが財政難になった、「J」は"あるミラノの得意客"に販売される。 さらに1971年に、イタリアのレーシング・チーム『スクーデリア・ブレシア・コルサ Scuderia Brescia Corse 』のオーナーで車のコレクターでもあるアルフレッド・ ベルポナー Dr Alfredo Belponer の手に渡る。 この取引はでのランボルギーニ・ディーラー、エンリコ・パソリーニ Enrico Pasolini が担当していた。 ところが、ベルポナーがステアリングを握る前にディーラーのメカニックがブレシアの環状道路で運転して事故を起こし、横転した後に火を噴いてしまった。 ウォレスからは「浮きやすい」と注意されていた [ ]。 乗っていた二人は一ヶ月の入院ですんだが「J」は修理不能の残骸となった。 ウォレスが「J」を製作した理由については諸説あるが、は「ミウラの徹底改良版がどの程度の実力を持ち得るか」を推し量る為のものであったと推測し、結果としてミウラの発展改良型では満足のいく性能が得られないと判断したウォレスは、フレーム構造からして全く異なる「カウンタック」を構想するに至ったのではないかと指摘している。 P400 SVJ [ ] イオタの評判を耳にした顧客が自分のミウラをイオタに改造してほしいと依頼して誕生。 ランボルギーニは製作を受諾し SVJと名づけて製作された。 わずか5台が製作されたのみ。 5台以外にも修正された車両があるが、それらはイオタ・ボディに変更されたのみでエンジンやシャシーに関してはイオタ化の変更は一切されていない。 ランボルギーニ製ではあってもこの後者の仕様は"イオタ・レプリカ"とよばれることがある。 SVJの最初の一台は車体番号4934で1971年12月生産の車両で、前の国王 パフラヴィー2世 の依頼だった。 イオタのボディ、 機能しない飾りの ブレーキ・クーリング・ダクト、ヘッドライト・カバー、レース用の外付け燃料フィルター、フロントワイパーは一本式、フロントスポイラー、サスペンション設定の再調整が施されたものだ。 の宮殿内にもう一台のSVと共に護衛付きで保管していたという。 この車は革命後多くの人の手を経たが、映画俳優もからまで所有していた。 P400 SVJ スパイダー [ ] 1981年のジュネーブショーにランボルギーニが出品したオープン仕様のミウラ。 実際には1971年のジュネーブショーに出品されたイエローカラーのミウラSをベースにスイスのランボルギーニ・ディーラーであるランボモートルAGがスパイダーとして1980年に架装したものである。 新たにランボルギーニを買収したがCEOについてまもなくの時期で、この P400 SVJ スパイダーはやなど他の1981年モデルと並んでランボルギーニブースに展示され、ランボルギーニの再生を謳っていた。 このときは幅広タイヤを装着し、リアウイングも取り付けられていた。 2006ミウラ・コンセプト [ ]• スペインの牧場'Miura'のの角にかかって死んだ名闘牛士は何人もいる。 獰猛で頭が良く、角の大きなMiuraの闘牛は、今でも闘牛士の間で恐れられている。 当時ミウラ牧場のオーナーはフェデリコ・ミウラでフェルッチオの友人であった。 フレーム製作を担当したマルケージ社の記録では747台。 いつもクルマがいた ポール・フレール自叙伝 初版 ed. chiyoda Tokyo: 二玄社. 219. フェラーリでは、ミッレミリア・ルートにあるフータとラティコーサ峠を走ったことがあるが、このワインディング山岳ロードでは何よりも強い腕力を必要とした。 しかしハンドリングはミウラよりも限界が掴みやすく、最高速もわずかながらそれより速かった。 刊 No. 福野礼一郎『福野礼一郎スーパーカーファイル』双葉社、2008年 参考文献 [ ]• Bell, Roger「The call of the wild」『SUPERCAR CLASSICS』18、、1993年、6-24頁。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• クルマの写真を元にした印刷アートの制作販売を行っているPhilippe Muratoriのサイトではミウラに関するあらゆる資料が確認できる。

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ランボルギーニ「ミウラSVR」が見事レストアされ日本に帰還。岡山・中山サーキットを走る

ランボルギーニ イオタ

夢を叶える、憧れを現実にする。 それは多くの場合、容易なことではない。 その高いハードルを実現させるために、さまざまな犠牲を払うこともあるだろう。 あくまでも個人的見解だが、夢や憧れを現実にできるかどうかの指針のひとつに「本気度」があるように思う。 それがモノであっても、職業であってもいい。 万難を排してでも現実のものとしたいのか?そこまでではないのか?その答えは自分の中で既に出ているはずだ。 これに「運」がプラスされて、初めて夢や憧れが現実に一歩近づくように思う。 例えば、宇宙飛行士になりたいとしよう。 本人にその素質と適正があったとしても、JAXA 宇宙航空研究開発機構 が募集していなければ、そのタイミングを待ち続けるしかない。 しかし、年齢を重ねていけばそれだけ体力は落ちるし、身体も衰えてくる。 憧れを現実にするには、運を味方につけることも大切な要素だ。 しかし、このスズキ・CARAのオーナーは、憧れを「自ら造り上げることで」現実にしてしまった人だ。 この個体がパーキングエリアに滑り込んできたとき、「何だあれは!? 」と、周囲が一斉にざわついた。 見た目は明らかに日本の軽自動車サイズなのに、佇まいはランボルギーニ・イオタSVRそのものだ。 その場に居合わせた誰もが目を丸くしたに違いない。 そんな騒ぎをよそに、ランボルギーニ・イオタSVR仕様のスズキ・CARA 実はオーナーに伺うまではマツダ・オートザムAZ-1だと思っていた が停車すると、あっという間に人だかりができた。 隣に停まっているのは、美しく磨き上げられたフェラーリ348だが、存在感では互角か、それ以上かもしれない。 さっそくオーナーに声を掛けてみた。 マツダ・オートザムAZ-1が発売されたのは1992年秋のことだ。 翌年の1993年より、OEM車としてスズキから「キャラ」という車名で発売されたのがこのモデルだ。 エンジンは、当時のスズキ・アルトワークスとほぼ同じで、排気量660ccの3気筒ツインカムターボを搭載。 軽自動車で駆動方式はミッドシップ、2シーター、さらにガルウイングを装備していたAZ-1は、まさに異色の存在だった。 このパッケージのクルマは、日本だからこそ実現できたモデルといえるだろう。 特にキャラは、生産台数が1000台にも満たないため、現在はもちろん、当時からレアなクルマとして、マニアの間では知られた存在だったのだ。 そんなキャラが、現在のようにランボルギーニ・イオタSVR仕様へと変貌を遂げるまでには、何らかのきっかけがあったはずだ。 その点をオーナーに伺ってみた。 「私は現在、56歳です。 スーパーカーブームを受けた世代の人たちより、少し上の世代になります。 実は、小学生のときに1歳年上の女の子に恋をしました。 男子なら誰もが憧れるような美人でしたね。 その子の苗字が「三浦」だったんです。 結局、この恋は叶うことなく終わりましたが、中学生のときにランボルギーニ・イオタSVRのベースとなるミウラの存在を知ったんです。 あっ、三浦さんと同じ名前のクルマだ!と 笑。 そこからですね。 ミウラに興味を持ったのは。 大人になってから、そのミウラの頂点に君臨するのはイオタSVRだということが知ったんですね」。 「ステージ1では、フロントカウルを中心にカスタムしました。 このカウルは、知り合いの板金工場に依頼して、マツダスピード製をベースにワンオフで作成してもらいました。 この仕様をベースにして、ステージ2へと進化していきます。 ここではフロントカウルを左右フェンダーと一体化させ、チルトカウルへとカスタム。 さらにリアカウルの幅を広げ、全長も伸ばしました。 そして現在はステージ3という位置付けです。 ヘッドライト位置を横に広げて、リアも一体化させ、チルトカウルにしました。 SSRのホイールを組み込み、念願だったディープリム化は、クルマのカスタマイズで知られるART OF WORK アートオブワーク にお願いしました。 ある旧車イベントでミウラSV用のテールランプを破格値で入手し、装着しました。 これは密かな自慢ですね」。 驚くことなかれ、このランボルギーニ・イオタSVR仕様は、大枚をはたいてカスタムショップに依頼して造らせたものではない。 一部を除き、その多くはオーナー自らが造り上げた「作品」なのだ。 絶妙なバランスで成り立っているボディワークも、オーナーの感覚値で生み出されたものだというから、もはや脱帽するしかない。 リアのルーバーも、一部の加工はプロに依頼しているが、12気筒エンジンをイメージさせるファンネル これはもちろんダミーだ をはじめとして、基本的にオーナーの自作だ。 もちろん、日本の法規に合致するように製作された「フル公認車」であることは言うまでもない。 「現在のステージ3の完成度は90%といったところでしょうか。 残りの10%は、フロントフェンダーとタイヤのすき間が大きいことが気になる点です。 しかしそこを煮詰めるとなると、フロントカウルを新たに造らなければなりません。 今の雰囲気が気に入っていますし、敢えてこのままでもいいかなと思っています」。 高速道路のパーキングエリアなどで本物のランボルギーニ ミウラに遭遇したときは、意図的に隣のスペースにこのキャラを停めて、オリジナルのディティールを観察させてもらうのだそうだ。 もちろん、ミウラのオーナーも興味津々でこのキャラをじっくり観察するのだという。 何とも微笑ましい光景だ。 もはや、ランボルギーニ社がイオタSVRのレプリカとして公認してもいいのではないか?とすら思えてくる完成度とオーナーの情熱が込められたこの個体だが、もし、同じ仕様を造ってくださいと依頼が来たらどうするのか尋ねてみた。 「これはあくまで趣味で造ったクルマです。 もし依頼が来ても断るでしょうね。 僕は決してプロではありませんから」 取材の合間にも、気さくなオーナーの周囲にはこのクルマの写真を撮らせて欲しいという、観光客の姿が後を絶たない。 日本人はもちろん、外国人の姿も多いが、1人1人丁寧に対応している姿が実に印象的だ。

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世界に1台! ランボルギーニ・イオタSVRのレストアが完了!|MotorFan[モーターファン]

ランボルギーニ イオタ

ランボルギーニ・ミウラとはどんな車? 引用元:shutterstock V12エンジン搭載のミッドシップスポーツカー ランボルギーニ・ミウラは3. 9リッターV型12気筒DOHCエンジンを横置にミッドシップレイアウトした、2シータークーペモデルになります。 最高出力:350hp 最大トルク:37. ダラーラがシャシー設計、ベルトーネがボディ設計とデザイン ミウラのシャシーはイタリアの自動車製造会社であるダラーラによって設計されました。 また、ダラーラはランボルギーニ以外にもフェラーリやマセラッティなどの設計もしています。 ボディのデザインと制作はイタリアの自動車のデザインや設計を行なっている、ベルトーネに任せられることになりました。 ミウラの意味は? ミウラと聞くとなんだか日本人の苗字かと思いませんでしたか?しかしミウラの意味は伝説の闘牛牧場ミウラからな名付けられた車名になります。 ドアを全開にして正面から見た姿は、まるで大きな角を持つ闘牛のような見えることが由来になったそうです。 ミウラが登場した映画 1969年に制作されたイギリス映画「ミニミニ大作戦」(The Italian Job)の中でミウラが登場しています。 峠道を華麗に駆け抜けるシーンもありますが、最後はクラッシュすると言うカーアクションに使われました。 スーパーカーのミウラをクラッシュシーンに使うのはもったいないと思う方もいるでしょう。 しかし、この時使われた車両は製造段階で事故車になった車両を使用したとのことです。 ランボルギーニ・ミウラのモデル変遷 引用元:shutterstock ミウラ P400 ミウラ P400は市販車として販売された最初のモデルになります。 車名のPはPosteriore(後ろ)400は排気量の4リッターから名付けられました。 P400は1967年に販売開始してから1969年までに475台が作られました。 ミウラ P400S ミウラ P400SはP400をチューニングしたモデルになります。 エンジンは最高出力370馬力に強化され、ブレーキにはベンチレーテッドディスクブレーキ、リヤサスペンションの強化などが施されました。 またボディ形状も変更され、それに伴いパワーウィンドが装備。 またオプションでエアコンが装着できるなどの快適装備も増えました。 P 400Sの生産台数は140台になります。 ミウラ P400SV ミウラ P400SVはP400Sをさらにチューニングしたモデルでありミウラの完成形になります。 385馬力まで出力が上げられたエンジンの変更点は、インテークを拡大にし、キャブレターを変更、エンジン内部もカムシャフトを変更しバルブのリフトタイミングも変更されました。 足回りはリアサスペンションが強化され、リヤタイヤは9インチホイルーに変更。 それに合わせてリアフェンダーもワイドに変更されました。 またP400、P400SにないオプションとしてLSDが用意されましたが、実際に取り付けられている車両はごくわずか。 P 400SVの生産台数は150台となります。 ランボルギーニ・ミウラと似た外観のイオタとは? 引用元:shutterstock ミウラのボディを流用、シャシーは別物の実験車両 イオタはミウラの改良するために制作された実験車両と言われています。 ですので、販売はもちろんのことカタログにすら載っていないない幻の車です。 また、ボディ自体はミウラから流用しているのでデザインはよく似ていますが、シャシーは別物です。 サスペンションの形式からジオメトリやステアリングラックマウントの取り付け位置など全く別で独自の設計となっています。 イオタの公式レプリカ、ミウラ P400SVJ イオタ自体は販売されることはありませんでしたが、レプリカと言う形で作られた車両が存在します。 レプリカのベース車両はミウラP 400SVを使用、エンジン自体はミウラP 400SVと同じ4リッターですがオイルの供給方式をドライサンプに変更や圧縮比を11. 5:1に上げキャブレターを変更し、最高出力を440psまで高めてあります。 日本に存在する希少モデル、ミウラ SVR ミウラSVRはランボルギーニが19ヶ月と言う時間をかけてレストアした車両になります。 レストアのベースとなった車両はミウラP400Sですが、必ずしもオリジナルにこだわるのではなくルーフエンドにはウィングやワイドトレッドに対応するために大きく張り出したブリスフェンダーなど、よりスポーティーに仕上げられた車両なのです。 また世界に1台しか存在しない車両ですが、今は日本に保管されています。 ランボルギーニ・ミウラの現在の取引価格は? 引用元:shutterstock 1967年に販売が開始された元祖スーパーのランボルギーニ・ミウラ、一体どのくらいの額で取引されているのか気になるところだと思います。 ミウラといってもモデルによって価格相場は異なりますで、それぞれの相場を下記します。 ・ミウラP400 7,494万円〜9,992万円 生産台数475台 ・ミウラP400S 9,175万円〜1億5,745万円 生産台数140台 ・ミウラP 400SV 1億4,662万円〜2億1,722万円 生産台数120台 初代のP400に比べると改良モデルであるP400SとP400SVに関しては当然ですが、台数が少ないため取引価格も高額となっています。 マシンスペックはランボルギーニ・ミウラと同時期に販売されていたと言うこともあり、V型12気筒DOHC 4,390ccエンジンとミウラに勝るとも劣らないエンジンが積まれています。 ボディタイプは2ドアクーペとミウラと同じタイプ、違いは駆動方式がフロントエンジンのFRと言うことです。 フォード・GT40 GT40は1960年代当時フォードの企業イメージ向上のために、モータースポーツ分野で活躍することが効果的と言うことで開発されたスーパーカーです。 実際に販売開始されたのは1964年からになります。 そのあとの1966年に開催されたデイトナ24時間レースにておいて、GT-40 Mk. IIが1位〜3位を独占することになりました。 マシンスペックは4. 7リッターのV8OHVエンジンを搭載しており、最高出力は350ps。 関連記事: Advertisement 関連する記事• 2019. 09 2ドア式の箱型のような車の形状といえばクーペ。 一般的な2ドアタイプ車に限らず、ボンネット・キャビン・トランクがはっきりと分けられた3ボックスタイプの[…]• 2019. clicccar. ジャガー・XJの誕生50周年!1. 1[…]• 2019. 24 世界中にバットマンファンがいると思いますが、それと同じくらいバットモービルファンがいることをご存知でしょうか?実はバットマンが誕生してからすべてのシリ[…]• 2018. yokohama 目次 1. S20エンジン搭載、第1世代のスカイラインGT-R1. ハコスカGT-R(PGC[…]• 2019. 17 毎年、各国の自動車メーカーが威信をかけて臨むルマン24時間耐久レース。 そのレースで日本車として初めて優勝を果たした車をご存知でしょうか?現在ではスポ[…].

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