りんそくじゅ。 アヘンについて質問します。中国国内でアヘンが最も多く採れた場...

林則徐

りんそくじゅ

アヘン戦争に関連してのご質問ですか? アヘン戦争はイギリスが対中国の貿易赤字解消のために、 イギリスの植民地だったインドで生産されたアヘンを中国に売りつけ、 アヘン害のため中国が輸入禁止、廃棄処分にしたことに腹を立てたイギリスが、 中国に喧嘩をしかけた戦争です。 中国でアヘンが生産されて戦争の切っ掛けになったわけではありません。 18世紀後半、イギリスで花開いた紅茶文化は、 その大半は中国(清)からの輸入に頼っており、 その対価として支払っていた銀が不足するほどの輸入超過に悩みます。 代わりにイギリスは綿製品を中国に輸出しようとしますが、 中国(清)自身優れた綿製品を自国生産できることもあり、 輸出量が増えません。 イギリスは植民地インドでアヘンの大規模栽培を開始し、 中国へのアヘンの輸出により貿易の不均衡を解消しようとします。 イギリスからインドへは綿製品が輸出され、 インドから中国へはアヘン、 中国からイギリスへは茶、絹、陶磁器などを輸入するという、 三角貿易を画策します。 1767年には2000箱(1箱は100斤、約60Kg)以上を売りさばき、 1821年に4770箱(290t)、1838年には23000箱(1380t)、 清側が決済する銀に換算して1500万両にのぼり、 当時の清朝の年間歳入が4000万両でしたので、 40%近くがイギリスに流れたわけです。 中国のアヘン市場が大きな規模であり、 利益を生むことにイギリスは気付き、 19世紀半ばになると、インドで生産されるアヘンは、 年4,000トン (現在の世界の生産量は非合法を含めて年4,000~6,000トン前後) を越え、うち85%が中国へ輸出されたといいます。 総額は500万ポンドを越え、 中国からイギリスへの紅茶の輸入総額が330万ポンドだったことを考えると、 イギリスの思惑は見事的中したわけです。 一転して大量の銀(当時の通貨)が中国から流出し、 これに対して中国は、 1796年にはアヘン輸入の禁止を宣言し、 アヘン販売の禁止 1813 、 ケシ栽培とアヘン製造の禁止 1823 、 アヘン輸入の厳禁 1831 と様々な禁令を出します。 アヘンは清の国に蔓延し、労働力生産力は落ち込み、 道光帝が「林則徐(りんそくじゅ)」を欽差大臣に任命し、 1839年)アヘン取締りにあたらせます。 則徐は港で20283箱 1425トン)のアヘンを没収し、 20日間かけて海岸で焼却し、 アヘンの密売をする英商人を取り締まります。 それに対して英議会は、清国への軍の派遣を 戦争賛成271票、反対262票で可決し、 インド総督は東洋艦隊遠征軍を派遣します。 これが「アヘン戦争」1840年です。 英は厦門・寧波・上海等を占領し南京にも迫ります。 清はあわてて林則徐を左遷、事態の収拾を図りますが 交渉は決裂、本格戦争に突入します。 清軍は近代装備の英軍に歯が立たず、 香港は事実上占領されます。 戦争は、1842年8月29日、 英との間で南京条約全13条を締結して終結します。 没収、破棄したアヘンの代金の支払い600万$。 香港を英に割譲。 戦争賠償金1200万$の支払い。 貿易港として上海、寧波、福州、厦門、広東の五港の開港します。 中国国内でもケシの花は生産されていたそうですが、 四川省が中心だったといわれています。

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林則徐とは

りんそくじゅ

林則徐の書 (現・中山路19号 )に生まれる。 父はに挑戦してことごとく失敗したため、貧しい教師生活をしていた。 林則徐はこの父の無念を晴らすべく学問に励み、(16年)、27歳の時に科挙に合格し進士となる。 北京のに入った林則徐は、多くの行政資料を目の当たりにしてその研究に励んだという。 その後地方官を歴任し、当時問題とされてきた農村の再建と、それに欠かせない治水問題に積極的に関わるとともに、不正な官吏の大量処分を断行した。 彼の地方行政官としての手腕は今日でも高く評価されている。 また、彼の阿片根絶の取り組みもこの時の経験から強く意識されたものであると考えられている。 (17年)に (現在のとを合わせた地方の長官)になる。 この時に管内での阿片根絶に実績を上げ、の「阿片厳禁論」に賛同し上書した。 その実績と議論の精密さをは評価し、に林則徐を阿片禁輸のに任命した。 (19年)、に到着した林則徐は、イギリス商人が持っている阿片を全て没収し、処分した。 これに怒ったイギリス商人たちは林則徐に抗議し、最終的に阿片戦争を引き起こすことになった(詳しくはの項を参照)。 阿片を処分する林則徐 現地のイギリス商人を支援するために派遣されたイギリスの東洋艦隊は、広東ではなくに近いに現れた。 間近に艦隊を迎えた清の上層部は狼狽し、慌てて林則徐を解任し、イギリスの意を迎えることに必死になった。 林則徐の後任となった(琦善)がひたすらイギリスに低姿勢で臨んだ結果、清が大幅に譲歩したを結ぶことになった。 によって欽差大臣を解任された林則徐は西域辺境ののに左遷された。 しかし、林則徐はここで農地改革を行い、善政を布いた事で住民から慕われた。 林則徐にとってもこの場所で南下するの脅威を実見できた事は大きな収穫であり、進士の後輩に対し「将来清の最大の脅威となるのはイギリスよりもむしろロシアだろう」と言い残した。 これが後のらの 塞防派を形作ることになった。 (事実、イリは7月にロシアに占領されている。 ) (道光29年)に隠棲したが、が勃発すると召し出され、太平天国に対する欽差大臣に任命された。 そして任地に赴く道中にで病死した。 兼南洋大臣などをつとめた(1820年 - 1879年)の妻は、林則徐の娘、林普晴(1821年 - 1873年)である。 評価 [ ] の林文忠公祠 林則徐が解任された理由の一つとして、当時の清の官僚には広東の商人から賄賂を受け取っている者が多く、林則徐によりその金が絶たれた事を恨む者がいた事がある。 もしも林則徐がそのまま広東で指揮を取り続けていれば、イギリスを撃退できたのではないかという仮定はそれほど無理なものとも言えず、後世の中国人は強く惜しんだ。 また、(首都圏、現在の)の再開発を行って財政・国防上に資するべきであるという長年温めてきた構想(『畿輔水利議』)を欽差大臣就任直後に上奏したために、他の高官(当時の出世コースであった経験者が多かった)から「自分達の直隷での仕事ぶりを怠慢だと誹謗された」との恨みを買った事も原因の一つであるとされている。 常に清廉潔白で私事を省みず、左遷されても常に国家の事を考え続けた姿は後世の人間から深く尊敬されている。 子息 [ ]• 長男:(1814年 - 1861年) - 道光18年(1838年)に科挙に合格し進士となった。 同期にはがいる。 三女:林普晴(1821年 - 1873年) - の妻。 沈葆楨は道光27年()に科挙に合格し進士となった。 同期にはがいる。 林則徐の印 [ ].

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林則徐の書 (現・中山路19号 )に生まれる。 父はに挑戦してことごとく失敗したため、貧しい教師生活をしていた。 林則徐はこの父の無念を晴らすべく学問に励み、(16年)、27歳の時に科挙に合格し進士となる。 北京のに入った林則徐は、多くの行政資料を目の当たりにしてその研究に励んだという。 その後地方官を歴任し、当時問題とされてきた農村の再建と、それに欠かせない治水問題に積極的に関わるとともに、不正な官吏の大量処分を断行した。 彼の地方行政官としての手腕は今日でも高く評価されている。 また、彼の阿片根絶の取り組みもこの時の経験から強く意識されたものであると考えられている。 (17年)に (現在のとを合わせた地方の長官)になる。 この時に管内での阿片根絶に実績を上げ、の「阿片厳禁論」に賛同し上書した。 その実績と議論の精密さをは評価し、に林則徐を阿片禁輸のに任命した。 (19年)、に到着した林則徐は、イギリス商人が持っている阿片を全て没収し、処分した。 これに怒ったイギリス商人たちは林則徐に抗議し、最終的に阿片戦争を引き起こすことになった(詳しくはの項を参照)。 阿片を処分する林則徐 現地のイギリス商人を支援するために派遣されたイギリスの東洋艦隊は、広東ではなくに近いに現れた。 間近に艦隊を迎えた清の上層部は狼狽し、慌てて林則徐を解任し、イギリスの意を迎えることに必死になった。 林則徐の後任となった(琦善)がひたすらイギリスに低姿勢で臨んだ結果、清が大幅に譲歩したを結ぶことになった。 によって欽差大臣を解任された林則徐は西域辺境ののに左遷された。 しかし、林則徐はここで農地改革を行い、善政を布いた事で住民から慕われた。 林則徐にとってもこの場所で南下するの脅威を実見できた事は大きな収穫であり、進士の後輩に対し「将来清の最大の脅威となるのはイギリスよりもむしろロシアだろう」と言い残した。 これが後のらの 塞防派を形作ることになった。 (事実、イリは7月にロシアに占領されている。 ) (道光29年)に隠棲したが、が勃発すると召し出され、太平天国に対する欽差大臣に任命された。 そして任地に赴く道中にで病死した。 兼南洋大臣などをつとめた(1820年 - 1879年)の妻は、林則徐の娘、林普晴(1821年 - 1873年)である。 評価 [ ] の林文忠公祠 林則徐が解任された理由の一つとして、当時の清の官僚には広東の商人から賄賂を受け取っている者が多く、林則徐によりその金が絶たれた事を恨む者がいた事がある。 もしも林則徐がそのまま広東で指揮を取り続けていれば、イギリスを撃退できたのではないかという仮定はそれほど無理なものとも言えず、後世の中国人は強く惜しんだ。 また、(首都圏、現在の)の再開発を行って財政・国防上に資するべきであるという長年温めてきた構想(『畿輔水利議』)を欽差大臣就任直後に上奏したために、他の高官(当時の出世コースであった経験者が多かった)から「自分達の直隷での仕事ぶりを怠慢だと誹謗された」との恨みを買った事も原因の一つであるとされている。 常に清廉潔白で私事を省みず、左遷されても常に国家の事を考え続けた姿は後世の人間から深く尊敬されている。 子息 [ ]• 長男:(1814年 - 1861年) - 道光18年(1838年)に科挙に合格し進士となった。 同期にはがいる。 三女:林普晴(1821年 - 1873年) - の妻。 沈葆楨は道光27年()に科挙に合格し進士となった。 同期にはがいる。 林則徐の印 [ ].

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