小田急 脱線。 東京の電車「小田急電鉄・路線の沿革

小田急線脱線事故!車がなぜ踏切内に?現在の状況と遅延状況は?

小田急 脱線

事故一覧 [ ] 1870年代 [ ] 新橋駅構内列車脱線事故 [ ] (明治7年)() 午前8時15分、構内で(現・桜木町駅)からの列車が到着する際、通過時にと1両が脱線し転覆、客車2両が脱線。 負傷者なし。 これにより午前中の運行は取りやめ、午後も品川 - 横浜間のみの運転となる。 原因はポイントの故障とされる。 日本最初の鉄道事故。 東海道線神崎列車脱線事故 [ ] 1874年(明治7年)() 午後5時15分発の行き最終列車が、(現・尼崎駅)を発車して神崎橋へ近づいたところで、線路内へ走ってきたと衝突した。 即死した牛の死体が中央部車輪に巻き込まれ、2両が脱線し転覆、2両が脱線した。 負傷者なし。 東海道線西ノ宮列車正面衝突事故 [ ] (明治10年) ・ - 西ノ宮駅(現・)間で上り旅客列車と下り回送列車が正面衝突。 上下列車は本来西ノ宮駅で行き違う予定だったが、上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列車の機関方(機関士)が臨時列車の到着後、旅客列車を待たずに発車したのが事故の原因である。 上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が 死亡した。 従来は駅長同士の電信連絡で列車の運行を管理していたが、事故を機に1区間に1本の列車しか入れないようにする方式の導入が前倒しされた。 日本最初の鉄道死亡事故。 1880年代 [ ] 大森駅構内列車脱線事故 [ ] (明治18年)() [ ] 深夜1時ごろ、東海道線構内で、到着した新橋発大森行き(客車14両編成、の客用)を下り線から上り線に転線する作業中、上で客車が脱線転覆。 乗客1名死亡、1名負傷。 当日は池上本門寺の期間中であった。 事故原因は推進運転中の機関士が入換合図を見間違え、開通していない分岐器に進入したためといわれる。 日本の鉄道における最初の死亡事故。 東海道線工事列車正面衝突事故 [ ] 1889年(明治22年)4月11日 午前11時15分ごろ、東海道線安倍川付近で牽引の静岡発工事列車と牽引の焼津発静岡行工事列車が正面衝突し、4人が死亡、7人が負傷した。 死亡した中には、名古屋で開かれる第三師団の招魂祭に参列するために乗車していた静岡県知事のがいた。 まだ東海道線が全通しておらず、関口は工事列車に併結された客車に便乗していたが、前の貨車が積載していた鉄材が衝突時の衝撃で客車に突き刺さり、その鉄材に足を挟まれた。 足を切断しなければならない状態にもかかわらずそれを拒否したためによって傷口が化膿し、5月17日に死亡した。 1890年代 [ ] 山陽鉄道軍用列車海中転落事故 [ ] 事故現場付近にある慰霊碑 (明治28年) 当時の路線だった - 間を深夜に走行していた上り(蒸気機関車牽引、客車23両、車両はすべて鉄道局所有)が、神戸起点225. 3付近(現在のとの境界)において、折からの暴風雨による満潮時の波浪で、築堤が300にわたって崩壊していた線路に突入したため、機関車と客車6両がに脱線転落した。 軍用列車にはに従軍した傷病兵と付添人、乗員ら358名が乗車していたが、11名死亡(うち乗員3名)し、98名が負傷した。 事故後で3名が死亡したため、後述のでは乗客の死者を11名としている。 機関車に乗務していた機関士と火夫見習いは殉職したが、火夫は顔面の負傷のみで助かり、海中に転落した客車から傷病兵を救助し、事故発生を知らせるために徒歩で尾道駅に向かった。 現在、同区間は海岸から少し離れたところに線路があり、海岸との間にがあるため、同種の災害が起きる危険度は低い。 慰霊碑は事故から41年後の1936年に第5師団の手で建立されており、現在も山陽本線才の原踏切(と鉄道の立体交差地点)の傍らにある。 参考:(国立国会図書館デジタルコレクション) 奈良鉄道平面交差衝突事故 [ ] 1895年(明治28年) (現・)行き22列車が、京都駅 - 間ので平面交差していたの電車に衝突し、電車の乗客3人が死亡、29人が負傷した。 京都電気鉄道側の信号無視が原因。 東海道本線工事列車転落事故 [ ] (明治30年) 東海道本線(現・) - 間(は信号所時代を含め未開業)が、によるの氾濫によって不通になり、復旧工事が進められていた。 午前5時ごろ、沼津から復旧工事現場に来た工事列車(機関車202号牽引)が停止しようとしてブレーキ操作を誤り、速度超過のため車止めを突き破り築堤下に転落、乗組員3名(うち2名は即死、もう1名も当日に死亡)および作業員6人の計9名が死亡し16名が負傷した。 九州鉄道蒸気機関車ボイラー破裂事故 [ ] ボイラーが破裂した機関車 (明治31年) 8時ごろ (のちに国有化)(1969年廃止)の構内で混合列車を牽引していた蒸気機関車(タンク式、のちの、1893年アメリカ合衆国製造)が、貨車入れ替え作業中にボイラーが破裂し大破。 乗務員2名と駅員1名が殉職し、踏切にいた歩行者4名、民家内に居た1名が負傷したほか、吹き飛んだ車体で400(約120m)離れた地点までの民家3軒も破損した。 事故は外火室が破裂したものであったが、原因不明。 箒川鉄橋列車転落事故 [ ] (明治32年) 当時の路線だった - 間で発生した、明治時代最大の鉄道事故である。 当日17時ごろ、折からの接近による強い風雨のため、発行きの混合第375列車(機関車2両、貨車11両、客車7両)は矢板駅を約1時間遅れで発車した。 箒川鉄橋を通過中突風にあおられ、この瞬間貨車最後尾のの連結が外れて緩急車とその後ろの客車7両が鉄橋上で転覆、そのままへ転落した。 増水した川の濁流で貨車・客車は砕かれ、一部の遺体は下流のまで流された。 死者19名、負傷者38名。 詳細は「」を参照 1900年代 [ ] 東海道線山崎駅 - 高槻駅間列車脱線事故 [ ] (明治33年) 19時45分頃() - 間(当時は未開業)で下り第105混合列車(蒸気機関車、客車12両、貨車11両)が走行中突然、前から11両目の客車と次位の貨車3両が脱線し、その4両のうち2両が築堤下に転落し1人が死亡、2名が負傷した。 事故原因は不明とされてきたが、後年のの事故の最初のものと考えられている。 横川駅 - 軽井沢駅間乗務員乗客転落事故 [ ] (明治34年)() を発車し、へ向かって登坂中の行き第51列車において、20時40分ごろの蒸気管が突然破裂し、噴出した蒸気によって2名が車外に飛ばされて重軽傷を負った。 はをかけたがが効かず、列車は重力によって自然停止したあとに退行し始めた。 このとき乗客は40人おり、うち1人が退行前に飛び降りて無事に軽井沢駅にたどり着いたが、退行開始後に飛び降りた副社長のとその息子の2人が列車に巻き込まれて死亡した。 だった毛利はの急勾配で退行し始めたということは制動不能になったと判断、その恐ろしさを知っていたため、ほかの乗客にも飛び降りることを勧めて飛び降りたという。 列車は約1. 9 km退行したが、機関士の必死の操作により停車に成功し、残った乗客は無事だった。 倉賀野駅 - 高崎駅間列車爆発事故 [ ] (明治40年) 18時40分頃 の - を走行中の512列車で、14両目の3等車の網棚に吊ってあった乗客の携帯品()が落下して爆発、車体の上部が吹き飛び4人が死亡、20人が負傷した。 危険物の中身は不明。 大阪駅清水太右衛門殉職事故 [ ] ノースゲートビルディングと立体駐車場をつなぐ通路に移設された清水太右衛門殉職碑 1907年(明治40年) 18時ごろ() の駅員の 出身 が同駅西第一踏切で踏切番として勤務中、遮断機をくぐり線路に入った幼女を発見。 そのときの上下列車が同時に迫ってきた。 太右衛門も踏切内に飛び込み間一髪で幼女を救ったが、太右衛門は列車と接触して重傷を負い、幼女を気遣いながらも22時間後に入院先で死亡した。 死亡前には事故の目撃者の1人から10円もの寄付があり、大阪駅長が発起人となって義捐金を集め太右衛門に贈ろうとしていた。 この出来事に心をうたれた人々が太右衛門の功績を後世に伝えるため、1907年10月に現場付近(現在の梅田三丁目)に「清水太右衛門殉職碑」が建立された。 ので破壊されたため、に国鉄総裁ので再建された。 に大阪駅の改装工事のため、池田線梅田出入口付近に移設、これ以来JR社員によって数十年ぶりに命日に慰霊式が行われるようになった。 1月、と立体駐車場をつなぐ通路に移設された。 現場となった踏切は大阪駅化に伴い昭和初期に廃止された。 (昭和17年)に太右衛門の行為を描いた紙芝居が大阪鉄道局によって制作された。 慰霊碑移設の新聞記事を見た作者の息子から6月に紙芝居がJR西日本に寄贈された。 『大阪駅物語』によって紙芝居が作られた事自体は知られていたが、所在は不明だった。 参考文献• 『大阪駅物語』朝日新聞大阪本社社会部、、1980年、48 - 50頁。 『鉄道碑めぐり』日本国有鉄道総裁室文書課、、1962年、137 - 139頁。 関連項目:、 上信電鉄転落事故 [ ] 1907年(明治40年)8月17日 高崎発の列車が、洪水により橋脚が傾いた烏川鉄橋に進入したため川中に転落(機関車、緩急車1、客車1)。 即死1名、軽重傷8名を出した。 九州線中原駅構内列車衝突事故 [ ] (明治41年)() 九州線(前年にを国有化したもの)で、混合列車と駅に停留中の貨車が衝突。 この衝撃で貨車2両がプラットホームに乗り上げ駅舎を破壊、待合室にいた2名が死亡、6名が負傷した。 銭函駅 - 軽川駅間列車脱線事故 [ ] 1908年(明治41年) 11時53分頃() の - (現・手稲駅、・・はすべて未開業)間を走行中の11列車が線路上の材木に乗り上げ、機関車と客車4両、郵便緩急車1両が脱線転覆した。 乗客1名が死亡、20名が負傷。 東海道線蒲郡駅構内列車衝突事故 [ ] 1908年(明治41年)() で、旅客列車と貨物列車が衝突、双方の機関車および客車3両と貨車4両が脱線し破壊、乗客5名と職員1名が死亡し、8名が負傷した。 奥羽線赤岩信号所構内列車転覆事故 [ ] (明治42年)() で発生した列車転覆事故。 赤岩信号所を発車した列車が急勾配の第13号隧道内において空転を頻発した。 その際、後部補助機関車内の機関手および機関助手は蒸気により窒息し昏倒。 異常に気づいた本務機関車の機関手は非常制動をしようとしたが後退し始めた。 そのまま列車は赤岩信号所構内に侵入、脱線転覆した。 木造の客貨車は粉砕され、旅客は1人死亡、27人負傷。 職員は3人死亡、3人が負傷した。 1910年代 [ ] 東海道線大垣駅列車追突事故 [ ] (明治45年) 11時27分頃() を走行中の軍用丁号列車に後続の貨物第459列車が追突し、貨物列車の機関車が脱線、軍用列車の客車4両が大破した。 兵士5名死亡、53名負傷。 貨物列車の速度の出し過ぎが原因。 大垣駅の遠方信号機の停止現示で制動を執るも、間に合わず追突した。 函館本線列車転落事故 [ ] (2年) 2時45分頃() - で、第4列車が土砂崩壊で埋まった線路に突入し立往生、目名駅へ引き返そうと後退したが、第1貝殻沢橋梁に差しかかったところで築堤が崩壊し、2両目の客車が転落、1等寝台車など3両が横転した。 7名死亡、67名負傷。 北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故 [ ] 1913年(大正2年) 東岩瀬駅列車正面衝突事故を報じた「富山日報」の紙面東岩瀬駅(現・)で、上り列車と行き違いを行う予定の下り臨時第43列車がを起こしてに進入、上り対向転轍機外方約24mの箇所に停車した。 手信号による退行中の午前4時23分ごろ、前運送店主催の善光寺参詣の旅行者を乗せた 、上り臨時第700列車が停止信号を冒進し衝突した。 上り旅客列車は前部に客車10両を、後部に貨車12両を連結した編成であったが、うち客車6両が転覆脱線、客車2両が破損、貨車1両が脱線。 旅客24名が死亡(うち18名即死 )、旅客106名、職員1名が負傷した(日本経済評論社『事故の鉄道史 疑問への挑戦』では即死21名、救出後事故当日中に死亡した者3名、23日午後にした者2名、重軽傷者104名としている )。 下り貨物列車のオーバーラン、上り旅客列車のの見落とし(上り旅客列車の乗務員は、夜間に信号を照らす石油ランプの火が消えていたために信号を確認できなかったと証言した)、またはブレーキ操作の遅れが衝突の原因とされている。 下り貨物列車運転士及び上り旅客列車運転士は起訴され、(大正3年)4月7日、上り旅客列車運転士に禁錮8か月、下り貨物列車運転士に罰金200円の刑が確定した。 事故の発端であるオーバーランを起こした下り貨物列車側よりも上り旅客列車側の処罰が重い理由は、明治42年制定の列車運行及信号取扱心得第168条において「遠方信号機が確認できない場合は当該信号機に最大の制限のある危害信号(現在の停止信号)の現示があるものとして徐行し、必要に応じて停車しなければならず、場内信号機が停止信号であるならばその手前で停車しなければならない」との規定に違反していたためである。 また、(大正4年)2月1日付で鉄道院の部内処分が行われ、上り旅客列車側の遠方信号機の灯火がことを理由に東岩瀬駅長が減俸処分、下り貨物列車の緩急車へのブレーキ管の接続が不完全だったにもかかわらず(つながってはいたが、ブレーキはかからない状態だった)発車させ、その際に虚偽報告をした事故当時の富山駅助役(処分発令時は事故の責任により金沢運輸事務所運輸課員に降格されていた)が同じく減俸処分、部下(上り旅客列車乗務員)への監督責任により糸魚川機関庫主任が譴責処分となっている。 この事故を機にが採用され、日本全国に整備された。 安全側線は低速でのオーバーランに対しては有効であるが、運転士が停車操作を行わない場合は安全に停車できず、有効長が短いため砂利盛りに乗り上げるなどして脱線転覆し結局本線を支障することがある。 その結果発生した事故の例として、後年に発生した、などがある。 これらの事故を教訓に、などのさらなる安全設備が進展した。 初の鉄道事故。 東海道線西ノ宮駅列車脱線事故 [ ] (大正3年)() [ ] 午前3時半ごろ、発行の貨物第579列車が(現・西宮駅)付近で脱線した。 37両中、14両が脱線。 北陸線列車転落事故 [ ] (大正5年) 13時15分頃() - 間を第201列車(客車12両、貨車7両けん引)が走行中、角川鉄橋の手前で後部貨車が脱線、築堤下や川へ転落した。 この影響で4両目の3等客車も橋下へ転落し、11名が死亡、21名が負傷した。 軌道の安定を欠いていたところへ、有蓋貨車が高速で通過し浮き上がったのが原因と推定された。 東北線列車正面衝突事故 [ ] 1916年(大正5年) (現・) - 古間木駅(現・)間(当時は未開業)で、下り臨時旅客列車と上り貨物列車が正面衝突。 入営兵士ら29名が死亡した。 当時、東北本線はでをとっていた。 当日夜、古間木駅助役と駅員1人が勤務時間中に外出し飲酒した。 先に戻ってきた駅員は下り臨時旅客列車の運転の連絡を受けて閉塞扱いをしたのち就寝し、駅に戻った助役も寝てしまった。 その後、下り臨時旅客列車の運転を知らされていない別の駅員が、到着した上り貨物列車に渡す通票が見当たらないために助役を起こして指示を仰いだ。 泥酔した助役は閉塞機から通票が取り出せないのは故障だと判断し、針金を差し込む不正操作で通票を取り出して上り貨物列車に渡し発車させてしまった。 当時の閉塞機は通票が引っかかって取り出せなくなる故障が時として起こっており、その際は針金などを差し込んで通票を取り出していたが、この事故を機に、不正扱いができないよう閉塞機の改良が進んだ。 岩越線雪崩事故 [ ] (大正6年)1月22日 - 23日 1月22日、岩越線(現・) - 間で旅客列車の一部の車両が雪崩により埋没、無事だった客車で乗客を避難させた。 翌23日、この列車の救援に向かった機関車が堆雪により停車、除雪作業中にの直撃を受けた。 死者9名。 なお同線では同年3月にも雪崩による鉄道事故と、が発生している。 信越本線熊ノ平駅列車脱線事故 [ ] 詳細は「」を参照 下関駅構内爆発事故 [ ] 1918年(大正7年)7月26日 山陽本線(旧)構内でに積込み中の弾薬搭載の貨車が爆発。 作業員ら34名が死亡、51名が負傷した。 さらに鉄道貨車7両が粉砕し118両が脱線したうえに、下関駅構内にいた急行列車の客車窓ガラスも破壊されたため、列車の乗員乗客55名も負傷した。 東海道線人身障害事故 [ ] (大正8年) 22時25分頃() 東海道線 - 間の池上街道近くの地点で、御会式に参拝した群衆が柵を超えて線路内に立ち入り、走ってきた932電車と衝突し8名が死亡、3名が負傷した。 群衆が線路内に立ち入った理由は不明。 1920年代 [ ] 磐越西線小島山トンネル列車脱線火災事故 [ ] (大正10年)3月20日 18時8分 の - 間(当時・は未開業)にある小島山トンネルの東側出口で、雪混じりの土砂が堆積しているところに上り列車が突入し脱線。 多数の重軽傷者が発生するなか、郵便係員用のストーブから出火し全車両に延焼した。 死者9名。 北陸線列車雪崩直撃事故 [ ] 詳細は「」を参照 参宮線列車転覆事故 [ ] (大正12年) 参宮線(現・)の - 間(から約8. 1km地点)で、湊町(現・)発行き急行62列車が脱線転覆した事故。 死者15名、負傷者約160ないし200名。 この日は先発の第60列車が定員オーバーにより連結器が破損して2時間以上遅れ、その間に、名古屋方面から来た乗客を乗せるため亀山駅より臨時列車が第60列車のダイヤに沿って発車(臨時60列車)、遅れて到着した第60列車は第62列車のダイヤに沿って運転、さらにその後ろを走っていた第62列車は下庄駅で上り第310列車を待ち合わせたため、32分遅れで発車した。 事故現場ではこの第310列車の通過後40分間は列車が来ないことになっており、この間にレールを交換する予定であった。 しかし、それを知らせる標識は一切出しておらず、レールを外し終わったところに62列車が差しかかり脱線、転覆した。 機関車は線路の敷かれていた築堤上に停車、しかし木造客車7両のうち4輪単車の1 - 3両目は築堤の下に落ちて大破、同じく4輪単車の4、5両目も折り重なるようにして大破、線路上に残っていたボギー車の6、7両目も破損した。 そして築堤下に落ちたうちの1両は写真では一切確認できないほど大破した。 根府川駅列車転落事故 [ ] 海底に沈んだ車輪の周りを泳ぐ魚 読売新聞1933年8月28日付 1923年(大正12年)() 熱海線(現・)のホームに停止しようとしていた下り行き列車(977牽引、乗客約150名)が、によって引き起こされた地滑りに遭遇し、ホームごとおよそ45m下の海中に転落、客車8両のうち最後部の2両 が波打ち際に残ったほかは海中に没した。 鉄道省の記録 では、列車の乗客と乗務員合わせて111名が死亡。 さらにホームにいた駅員3名が死亡、乗客約20名が行方不明、これも合計すると死者行方不明者は約130名となっているが、死者数は資料によって異なっている。 また、根府川駅で下り事故列車と交換するはずであった行き上り列車は、遅延していたため寒ノ目山トンネルを出た所で地滑りに遭遇し、客車6両をトンネル内に残して(979 )が埋没、職員4名と乗客2名が死亡した。 関東大震災では12件の鉄道事故が発生し、犠牲者が出た事故は7件あったが、根府川駅における事故が最大の犠牲者を出していた。 詳細は「」を参照 箱根登山鉄道電車脱線転落事故 [ ] (大正15年)() [ ] 小田原電気鉄道(現・) - 間の80の下り勾配を走行していた箱根湯本行き単行電車(チキ5)のブレーキが効かなくなり、加速してカーブで脱線。 築堤から12m下に落下し、民家2軒(留守で誰もいなかった)を半壊させた。 この事故で17名が死亡、10名が負傷した。 唯一無傷だったのは途中で飛び降りた乗客1名のみだった。 事故原因は鉄道省による調査では線路、車両とも異常は見つからず、電車の運転士が速度制御に失敗したと推定されたが、重傷の運転士は当時の記憶を喪失しており、詳細を調査できず原因不明として処理された。 事故車のチキ5は廃車となった。 その後、にチキ1型の台車などを流用したモハ1形が製造されたが、車両番号は台車の流用元の番号に100を足したものとされたため、105号が当初から存在しない状態となっている。 その後、電動貨車1208号が510号と接触。 事故車両はすべて鋼製車両だったため、死者はなく、負傷者3人のみにとどまった。 三河鉄道正面衝突事故 [ ] (昭和3年) 三河本線(現在の)に停車しようとした下り貨物列車 がブレーキ故障により冒進し単線区間に進入、同駅付近 で対向の旅客列車 と正面衝突した。 翌日の報道では乗客44名のうち生命危機1名、重傷6名、軽傷13名とされている。 東京市電大曲衝突事故 [ ] (昭和3年) 事故当日の朝、の21系統発行きの電車(1632号)が竹町停留所付近にて空気ブレーキの故障を起こし、同停留所で客扱いを中止して早稲田車庫への回送を決定。 春日町停留所まで単独運行したあとに大塚行きの電車との連結運転で伝通院停留所へ到着。 同停留所から次の早稲田行きの電車に連結するために早稲田方面の線路に侵入したところ、安藤坂の自然傾斜により電車は暴走を始める。 同車の監督運転士が暴走する電車に飛び乗り、運転士とともに電車を制動させようとするも失敗し、坂下の大曲交差点に差しかかっていた38系統早稲田発行きの電車(1056号)の運転士が回送車の監督運転士の危険を知らせる絶叫に気づいて電車を発進させるも 、間に合わずに側面に衝突した。 朝ラッシュで乗客を満載していた錦糸堀行き電車は民家の板塀を突き破った状態で横倒しとなり、回送車は運転台をもぎ取られた状態で停止。 回送車の監督運転士が即死し、33名が重軽傷を負った。 北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故 [ ] (昭和3年) - 間(のちに新線切り替えに伴い当該区間はに分離、廃止)にある(単線)を走行していた上り556貨物列車(蒸気機関車2両、前部本務機D50 64、後部補機D50 206)が、トンネル内の25の登り坂で車輪が空転し速度が低下し、トンネル内に煤煙が充満したため、出口から25mの地点で走行不能になった。 そのため上り貨物列車の乗員10名が窒息したが、かろうじて前部本務機の乗務員3名が這い出て昏倒した。 トンネル直前にあった雁ヶ谷信号所で待機していた下り553貨物列車の機関車が救助のために牽引し、トンネル外に押し出したが、下り機関車の乗務員2名も昏倒した。 結果、上下の貨物列車の乗務員12名全員が窒息し、上り貨物列車の車掌・荷扱手、見習の3名が死亡した(一部に5名死亡の記録もある)。 事故原因は、2日前に別の鉄道事故で1日間不通になったことにより滞貨していた貨物を大量に牽引していたため重量が超過していたこと、レールに積雪があり車輪が空転していたこと、風が貨物列車にとって追い風となり、煤煙がまとわりついて拡散しなかったことがあげられている。 そのため、昭和時代になって大型蒸気機関車が通行すると、空間に余裕がなく煤煙が充満し当該窒息事故が発生した。 事故対策として、全国の長大トンネルで列車が入ると煤煙にまかれないように遮断幕を下ろす設備が整備されたほか、蒸気機関車の運転室に煤煙が入らないように、集煙装置がつけられるようになった。 大鉄電車三重衝突事故 [ ] 吉野行き2両編成(右端)が後退し久米寺行き単行(中央)に衝突、更に吉野行き4両編成(左端)に玉突き (昭和4年) に開業したばかりの(現・) - 間(上ノ太子駅東方250m )で、花見客で満員の発行き電車(6両編成、最後尾529号 )が上り急勾配で故障して停車。 2時間修理を試みるも直らず、午後12時10分、から派遣された検車係が2両ずつ発車させようと連結器を切り離したところ、最後部の2両が突然後退し始めた。 乗務員が乗り合わせていなかったためブレーキ操作はされず 、あるいはすぐ飛び乗りエアブレーキ、ハンドブレーキを必死にかけたが効かず 、急勾配で加速し、上ノ太子駅に停車中の久米寺行き後続電車(デハ100形114号)に衝突、後方3尺のところに停車していた吉野行き後続電車(4両連結、先頭502号)を巻き込み三重衝突となった。 吉野行き電車運転士が死亡、乗客12名が重傷、80名あまりが軽傷を負った。 新聞報道にはないが、『大鐵全史』(1952年)によれば乗客も1名死亡している。 行き電車は全鋼車ではなかったため大きく破壊されたが、後退してくる電車を発見して窓から逃げ出し難を逃れた乗客も多かった。 一方、後続の吉野行き電車では気づけず前部から多くの重傷者が出た。 上ノ太子駅員や車掌、運転士は激怒する乗客たちに圧倒され、現場を捨てて逃げ出したという。 1両の定員が132名にもかかわらず400名以上を乗せており、上り急勾配に当時の電鉄界最初の試みという6両連結は無理があったのではないかと問題視された。 この日は朝から急勾配で数分または数十分立ち往生する電車が頻発し、午前10時ごろには二十数両が数珠繋ぎとなり、機関車2両を出動させて片づけたほどであった。 のちの調査で、検車係は許可が出る前に独断で後部車両を切り離したことと、設置したというが現場周辺から見つからず、虚偽の証言をしていたことが明らかになった。 とをかけず、エアーシリンダーの気圧も確かめずに後部車両を切り離したために後退したとされる。 この事故の2日後のには嵐山電車(現・)御室駅(現・) - 間での扱いの誤りにより正面衝突事故(運転士1名死亡)が発生した。 度重なる事故に「平常が私設鉄道の監督を怠っている結果」と世間の非難が高まり、鉄道省は両社に検査官を派遣、その後警告をすることにした。 事故に関わった車両のうち車番が判明している3両はいずれも(昭和17年)時点ですでに廃車されており、事故廃車と思われる。 1930年代 [ ] 久大線機関車ボイラー破損事故 [ ] (昭和5年) (当時の路線名は大湯線) - 間を走行中の行き下り第5列車を後進牽引(ボイラー側を客車に向けて牽引)していた機関車(8610)のボイラーが破裂。 煙室扉が開き、熱水(またはの説あり)が機関車直後に連結されていた客車内に吹き込んだ。 ボイラーへの給水が不十分であったことに加え、後進牽引で上り勾配に入ったためにの天井部に水のない部分が生じて一部が空焚き状態となり、温度上昇により火室の天井板が外れて高圧水蒸気が噴出したことが事故の原因であるとされた。 機関車直後の客車に乗り込んでいた乗客24名が重度のやけどを負い、即死した者はいなかったものの最終的に22名が死亡した。 運転士と機関助士はやけどを負ったものの生存し、刑事裁判で運転士は禁錮2か月、機関助士は禁錮3か月の判決を下されている。 この事故を機に、後進牽引を極力抑えるため、終点駅への設置が進められた。 山陽線急行列車脱線転落事故 [ ] 遠景 (昭和9年)() - 間(現在の - 石山駅間、当時瀬田駅とは未開業)の橋梁上を徐行運転していた下り急行列車(11両編成)がの強風により脱線。 3両目以降の9両の客車が橋梁上に転覆し、11名が死亡、202名が負傷した。 橋梁上での強風による客車の脱線という点では明治時代のや後年のと類似しているが、こちらは複線橋梁で、客車がもう片方の線路がある側に倒れて寄りかかったため転落(水没)という最悪の事態は避けられた。 通過各駅に掲示された暴風警報(気象告知板)や、本来は通過駅の草津駅で臨時停車して受けた警告 を考慮せず列車を運行していたため、は不可抗力ではなく乗務員の過失と認定 し起訴を決定した。 事故を機に風速計が設置され、防風設備の研究が進められた。 が通じず、鉄道省は5時間もの間死傷者の氏名すら把握できなかった。 鉄道省は空中架線に問題があるとして鉄道無電の整備を逓信省に要望した。 この事故の直前に付近で列車が脱線転覆し25名が死傷、また同線 - 間の野洲川橋梁で貨物列車が転落、水没している。 国鉄の強風への対策不足が露呈する結果となった。 なお同日午前には、奈良線(現・)でも(現・)内で電車()が脱線転覆した。 負傷者は20名、復旧に8日を要した。 寝台車マイネフ37200が大破し復旧困難であったことから翌年5月廃車となったが、にとして改造され復活、まで在籍した。 を参照。 展望車に機関車がめり込んでいる (昭和12年) 構内で4分遅れで発車しようとしていた下り特別急行1列車「」号(62号機牽引、客車11両編成)に後続の臨時普通1101列車(77号機牽引、客車8両編成)が追突し、臨時普通列車の機関車が特急富士の一等の展望室内に突っ込み大破、普通列車の先頭木造客車も機関車炭水車に突っ込み大破し双方の列車の乗客6名が死亡(うち3名は救助後死亡)、乗客・乗務員64名が負傷した。 原因は岡山駅信号所係員の信号取り扱いのミス。 東神奈川駅軍用列車歓送客轢死事故 [ ] 1937年(昭和12年)() [ ] 東海道本線付近で、軍用列車歓送の人波に押し出されたの女性ら25名が列車にひかれ死亡。 鹿児島線列車火災事故 [ ] 1937年(昭和12年)() - 上戸畑信号場(現・付近)間を走行していた上り12列車(7両編成)の4号車車内で爆発音が聞こえ、火炎が上がったため車掌弁で急停車。 火災は火元前後の客車に類焼し9名が死亡、36名が負傷した。 乗客が玩具製造の管の束を客車に持ち込み、下車の際に網棚から降ろしたとき、自身のくわえタバコの火がセルロイド管に引火したのが原因。 山陽線列車脱線転覆事故 [ ] (昭和13年) 午前3時56分頃 - 間を走行していた下関発京都行きの上り110列車(13両編成)が走行中、築堤が崩壊し機関車と前4両が脱線転覆。 その直後に走行してきた京都発宇野行きの下り801列車が下り線を塞いでいた110列車の5両目の側面に衝突した。 この事故で25名が死亡し、108名が負傷した。 110列車の機関車乗務員2名が殉職したほか、機関車の次位に増結されていた木造車両が粉砕し、多くの死傷者が出た。 この増結車両にはへのに行った帰りだった橋本の生徒一行が乗車しており、多くの生徒が犠牲になった。 また引率していた教員3名全員が殉職したが、瀕死の状態でありながら、自分の身よりも生徒たちの安否を尋ねていたという最期の様子が世間の同情を集めたという。 事故原因については、急曲線改良工事のために新たに盛土した築堤が、梅雨による長雨のために伏流水が増大し、の重量に耐えきれなくなり崩壊したというものだった。 そのため設計ミスで水抜きが充分ではなく盛土工事の施工不良が原因とされた。 事故原因は天災よりも人為的ミスの割合が高かったとされた。 魚梁瀬森林鉄道車両転落事故 [ ] (昭和14年) [ ] にあったで、山火事消火のために村民ら80名を乗せた列車が、釈迦地区のカーブで機関車と客車の連結器が破断。 村人を振り落としながら客車は谷底に転落。 14名が死亡した。 原因は通常運行の2倍以上とも言われている機関車の過速度運転にあったとされている。 中勢鉄道青谷車両脱線事故 [ ] 1939年(昭和14年) [ ] のが、津市の青谷でカーブを曲がりきれず脱線。 当日はであり車内は女学校の生徒で満員であったため女子生徒2名が死亡、50名が重軽傷という大惨事になった。 この事故で運行会社は安全面を問われ、平行路線である参宮急行電鉄(現・)の開通によって衰退していたうえに、さらなるダメージとなり、まもなく廃止に追い込まれた。 運転手はで起訴されたが、が125条の「鉄道又ハ其標識ヲ損壊シ又ハ其他ノ方法ヲ以テ汽車又ハ電車ノ往来ノ危険ヲ生セシメタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ処ス(平成7年改正前の文語体による条文。 ただし改正された刑法125条の主旨は同じ)」が言うところの「汽車又ハ電車」には、ガソリンカーは含まれないと裁判で主張した。 それに対し裁判所は「汽車又ハ電車」という文言自体にとらわれず、立法趣旨に鑑みて本質的にガソリンカーも汽車に含まれると判断し、有罪判決を下した(、昭和15年8月22日判決)。 そのため刑法学ではこの事故の裁判は、法律学上で禁じられているの例外である、論理解釈かつ拡張解釈の一例とされている。 1940年代 [ ] 武藏野鉄道線列車正面衝突事故 [ ] (昭和15年) [ ] 武蔵野鉄道武蔵野線(現・) - 間で、下り電車と上り貨物列車が正面衝突し、下り電車の乗客ら11人が死亡した。 原因は、下り電車が5分ほど遅れていたにもかかわらず貨物列車が所沢駅を勝手に発車してしまったということであるが、当時の所沢駅はライバルである旧西武鉄道(現・)の管轄駅であり、所沢駅職員が意図的に信号を操作し、武蔵野鉄道の運行を妨害したのではという憶測が流れたと言う。 所沢駅では以前から乗客の取り合いで両社の駅員が殴り合いのけんかをしたこともあったほどで、この事故を契機にによる武蔵野鉄道と旧西武鉄道の合併(現・)への流れとなった。 西成線列車脱線火災事故 [ ] 詳細は「」を参照 米坂線列車転落事故 [ ] 1940年(昭和15年) 8時45分 ( - 間、に廃止)の小国駅側にある荒川橋梁が雪崩の直撃を受けて崩壊した。 その直後に発行きの下り103混合列車(蒸気機関車48639(8620形)牽引、客車3両、貨車2両)がさしかかり、最後尾の客車1両以外は崩壊した橋梁から下を流れる荒川に転落した。 乗客・職員(鉄道郵便職員も含む)11名が死亡、負傷者30名(慰霊碑の記録)を出した。 雪崩対策が不充分であった可能性が指摘されている。 東海道線塚本駅列車衝突事故 [ ] (昭和16年) 構内で、経由で進行してきた牽引下り貨物283列車が、下り本線への合流地点で信号機を誤認して安全側線へ進入したために脱線転覆した。 当該事故で脱線した車両が下り線の内線・外線を支障して、下り711列車(259号機牽引・客車6両編成)・3201電車()と相次いで衝突する三重衝突事故となり、3人が死亡した。 夜が更けた時間帯で発生した事故であったため、衝突した列車の乗客が少なく、犠牲者が少なかった。 奇しくもこの事故から21年後に発生したとほぼ類似パターンの事故であった。 被災した電車はの先行改造車として、に原型の2扉クロスシートから4扉ロングシートに改造されて復旧している。 山陽線網干駅列車衝突事故 [ ] 1941年(昭和16年) 18時8分 構内で、下関発東京行き上り急行8列車(77号機牽引、客車11両編成)が駅の停止信号をして駅構内に進入し、停車中の下関発京都行き普通116列車(128号機牽引、客車9両編成)に追突。 双方の列車各3両が大破、85名が死亡、71名が負傷した。 当時は橙信号など中間現示には速度制限がなかったので、橙信号下で減速せず走行したことから次閉塞区間の停止信号で停車できずに事故を招いたとされた。 また、塚本駅事故とも合わせて、東海道・山陽・鹿児島線に連続コード速度照査式設置工事を開始したが、受信機が運用直前に爆撃を受けて使えなくなり頓挫、戦後は連合国軍に工事再開を拒否されそのままとなった。 豊肥線列車脱線転落事故 [ ] 1941年(昭和16年) - を走行していた下り列車(蒸気機関車牽引)が、連日の豪雨で路盤が軟弱化していた河原内鉄橋付近で機関車と客車4両すべてが脱線し、機関車と客車2両が立小野川に転落した。 の生徒を中心に44名が死亡、72名が負傷した。 のちに大分鉄道管理局局長になった人物も、この列車に乗り合わせ軽傷を負った。 常磐線土浦駅列車衝突事故 [ ] 事故直後の現場の様子 (昭和18年) 構内で、入換中の貨車が上り本線に進入し、同駅を通過した上り貨物列車と衝突。 貨物列車は脱線して下り本線を支障し、下り普通列車と衝突した。 普通列車の客車4両が脱線転覆、そのうち1両がへ水没し、最終的に110名が死亡、107名が負傷した。 貨第294列車は18時40分ごろ土浦駅上り1番線に到着、入換のため貨車41両を持ち引上線に引上げたところ、信号掛が転轍器を異方向に転換したため異線に進入。 上り本線から分岐する転轍器を割出して18時48分に進路を支障した。 18時51分30秒、貨第254列車が場内信号機の進行指示によって進行したため支障車両に衝突、牽引機関車は貨車に食いこみ、直後の貨車14両は脱線転覆し、下り本線を支障した。 18時54分、下り本線に進入した客第241列車は、貨第254列車に接触し脱線顛覆。 客車2両は脱線傾斜し、3両目は桜川橋梁上から脱線傾斜、4両目は桜川に転落水没した。 5両目以下は橋梁手前で転落は免れた。 原因は車両入換で信号掛と操車掛の打ち合わせ不良と操車掛の進路確認不良のため車両を異線に進入させ上り本線を支障させたことと、信号掛が列車防護措置をとらなかったことである。 操車掛は接近中の貨第254列車を停止すべく北部信号所に向かったが約500mの距離があり、間に合わなかったとされる。 この事故は戦時中のため大きく報道されることはなかった。 第1の事故は貨車入換中に発生したもので、入換作業は操車掛の進路要求により信号掛が進路構成し操車掛が機関士に指示することで開始するが、この事故では信号掛が異進路を構成し、操車掛が入換標識を確認せず入換を開始したことに起因する。 当時土浦駅の信号機は腕木式で、転轍器を割出しても自動的に場内信号機に停止信号を現示することはできなかったとされる。 信号掛は戦時中に列車運行を阻害する事故を発生させたことに気が動転したのか、北部信号所に連絡するなど上り列車抑止手配を取らなかったため、第2の事故が発生した(列車防護不適切)。 南信号所で対応可能であった下り場内信号機に停止信号を現示していれば第3の事故は防止可能であった(列車防護不適切)。 また、このときの事故車両(支障貨物に衝突した機関車)のは修理後運用復帰し、にで初代国鉄総裁を轢断している。 なお、のが幼少時代、母親と疎開のためにこの事故の巻き添えになった客第241列車に乗車して笠間に向かっていた。 同事故で川に転落して多数の犠牲者を出した車両に当初は乗り合わせていたが、事故発生直前に別の車両に移っていたために難を逃れている (のちにに遭遇して命を落としている)。 桜川鉄橋の北側線路脇、JR東日本土浦寮の敷地内には事故の慰霊碑がある。 1965年(昭和40年)に建てられた際は簡素な木柱であったが、風雨にさらされ傷みが進んだため、1986年(昭和61年)6月、従来の慰霊碑の脇に黒御影石製の新たな石碑が建てられている(従来の木柱も残されている)。 山田線列車転落事故 [ ] (昭和19年)午前8時7分ごろ発生 の - 間を走行していた盛岡発・釜石行下り貨物465列車(宮古機関区所属牽引、現車13両、換算14. 8両、重量148トン)が、雪崩で崩壊したに突っ込み谷底へ転落、機関士が死亡し機関助士が負傷した。 当該列車は大雪の影響により、平津戸駅に定刻より2時間遅れの午前0時20分に到着した。 先行する宮古行下り旅客15列車が豪雪により川内駅で立ち往生したため足止めとなり、午前7時56分に平津戸駅を発車したが、第二小滝トンネルを出た直後に小雪崩が機関車を直撃し、運転台前面窓を突き抜けて、雪が運転台になだれ込み、乗務員が身動きを取りにくい状況と吹雪で視界を奪われた状態で崩落した鉄橋に突っ込んだと思われる。 機関士が瀕死の重傷を負いながらも事故拡大防止のため、機関助士に緊急連絡を指示し息絶えた美談について、が社長の企画での主演により『』()という題名で映画化して世に広く知られることとなった。 また、現場付近には慰霊碑が建てられている。 当時の山田線は、戦争による海上輸送が困難となった釜石製鉄所への軍需物資である鉄鉱石・石炭および鉄鋼輸送のため、昼夜関係なく24時間体制で重量物を運ぶ貨物列車がダイヤの限界まで設定されていたが、当日の荒天による大雪のため、山田線の各列車に大幅な遅れが生じていた。 は、事故後しばらく経ってから現場から引き上げ、修理後に運用復帰し、(昭和45年)に山田線の無煙化により、蒸気機関車お別れ列車を牽引している。 明石駅構内列車脱線転覆事故 [ ] 1944年(昭和19年) 午前8時26分ごろ、構内に進入しようとしていた上り急行2列車(蒸気機関車60号機牽引、客車14両編成)が脱線。 牽引機関車および次位の客車5両が転覆大破し死者32名、負傷36名の惨事となった。 原因は何者かによる軌道上への。 山中渓駅構内電車衝突事故 [ ] 1944年(昭和19年) - の上り勾配で下り5125電車(2両編成)が減速して自然に停止。 運転士が原因を調べている最中に逆走し始め、空気ブレーキが使用不能のため手ブレーキで減速に努めたものの、山中渓駅に停車していた後続の5517電車(2両編成)に衝突した。 4名が死亡、128名が負傷した。 原因は先行電車運転士が床下の空気管のコックの取り扱いを誤ったことで空気ブレーキが使用不能になったこと、また転動防止処置が不十分で逆走したことである。 高野山電気鉄道電車脱線転覆事故 [ ] 1944年(昭和19年) [ ] (現・) - の登り勾配を走行していた下り行き電車(2両編成)が、床下より出火し急停車した。 点検していたところ停止ブレーキのかけ方に不備があったため、50の急勾配を電車は逆走し曲線区間で脱線転覆した。 71名が死亡、138名が負傷した。 なお、事故の引き金になった出火原因であるが、戦中戦後の戦時強制合併とその解消など鉄道会社の変遷の激しかった時期ということもあり、記録が残っておらず不明である。 山陽線列車追突事故 [ ] 1944年(昭和19年) - を走行していた下り233旅客列車(45号機牽引、客車11両編成)が閉塞信号の停止現示で停止していたところ、午前1時56分に後続の下り345貨物列車(蒸気機関車牽引)が追突し、追突した機関車と貨車56両中4両と、旅客列車11両中5両が脱線し大破した。 38名が死亡、59名が負傷した。 事故は、後続の貨物列車の乗務員が居眠りし、信号したためだった。 なお後続列車の乗務員は生存していたが、自責の念からのちに蒸気機関車の火室で焼身自殺した。 沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故 [ ] 1944年(昭和19年) において兵員と弾薬を輸送していた列車が爆発事故を起こし、乗務員や兵士、同乗していた旅客など約220人が犠牲となった。 詳細は「」を参照 高山線列車脱線事故 [ ] (昭和20年) [ ] - 間(当時、は未設置)にある益田川第三鉄橋を走行中の下り303列車(蒸気機関車牽引)がを起こし、客車6両のうち2両目と3両目が脱線のうえ、下の益田川(現在の公式名称は)に転落した。 死者43名、負傷者56名。 競合脱線の原因として戦時体制下のため、客車やレールなどの鉄道施設が荒廃していたことが背景にある。 直撃を受けた車両が木造車であったため大破し、死者20名、負傷者23名という惨事になったが、戦時中であったためほとんど報道されなかった。 北条線列車脱線転覆事故 [ ] 1945年(昭和20年) (現・北条鉄道) - 間(は未開業)で、を離陸したの「」がエンジンストールのため水田に不時着したものの乗員は死亡した。 この不時着の際に、紫電改の尾輪が線路を引っかけて軌道を破壊してしまった。 この直後に来た上り旅客列車(牽引)が破損した軌道に進入して脱線転覆した。 「」搭乗員と、乗客のうち11人が死亡し104人が負傷。 が鉄道事故を誘発した珍しい事例である。 目撃者によると、駆けつけた兵隊たちは乗客を助けるよりも先に戦闘機に田んぼのワラを被せて隠蔽を図ったという。 軍の機密として戦闘機不時着は公表されず、地元紙のですら、脱線転覆事故が発生したということと、死傷者数、死者氏名を掲載したのみだった。 2011年になって、事故機関車の動輪がで保存展示されていることが判明した。 富山地方鉄道線列車正面衝突事故 [ ] 1945年(昭和20年) 本線 - 間で、下り電車と上り電車が正面衝突し、乗客ら45人が死亡、重傷者85人、軽傷者115人を出した。 原因は三郷駅 - 東新庄駅間の信号が故障しており、下り電車が東新庄駅を発車しているにもかかわらず、三郷駅の駅員が失念し、上り電車に発車の指示を与えてしまったためといわれている。 くわえて当日は小雨が降り濃霧がたちこめ、現場は見通しの悪い防風林に囲まれた曲線の勾配部分という悪条件が重なり、大惨事となった。 肥薩線列車退行事故 [ ] 1945年(昭和20年) - 間の山神第二トンネル内において、蒸気機関車(D51形重連)牽引の上り人吉方面行き806列車(客車6両、貨車6両)が、粗悪石炭使用のため出力が不足して勾配を登りきれずに停止。 トンネル内に充満した煙に耐えられなくなった復員者などが列車から降りて出口へ向かって歩いていたところへ列車が逆走し始め、多くの乗客がした。 死者53名。 終戦直後の混乱期における、劣悪な輸送状況を象徴する一つの例として挙げられることがある。 くじら運動公園に置かれた八高線衝突事故車両の車輪 1945年(昭和20年) 7時40分頃 - 間の中央部において上り6列車(8869号機牽引、客車5両編成)と下り3列車(8853号機牽引、客車5両編成)が正面衝突し、客車が川に転落。 少なくとも105名の死亡、67名の重軽傷者が確認された。 終戦直後の混乱期のため、列車は通勤通学客に復員兵や疎開先からの帰宅者も加えて満員で、その多数の乗客が衝突により多摩川の濁流に流された。 当日は激しい雷雨により多摩川が川幅いっぱいに増水していたこともあり、遺体が海まで流されて確認されなかった死者も相当数いるのではないかと言われている。 原因は、小宮駅 - 拝島駅間での列車の運転の連絡不備による人為的なものとされている。 当日は朝から暴風雨で、さらに信号故障、激しい風雨が原因とみられる通信途絶が重なり、駅間の連絡が取れないためダイヤが大幅に乱れていた。 小宮駅では通信途絶でが使用できなかったため、代用閉塞の一つである指導式により列車を運転することとし、上り列車の指導員となる駅務員を徒歩で拝島駅へ向かわせた。 ところがその後、八王子から小宮に下り回送機関車が到着し、さらに下り旅客列車が続行するとみられたことから、小宮駅長は下り旅客列車を先行させることとし、その旨の連絡を携えた別の駅務員を機関車に乗り込ませて拝島駅に派遣した。 機関車は途中で先に出発した駅務員を拾い上げ拝島駅に到着したが、拝島駅は第1の駅務員の連絡を正とし、それと矛盾する第2の連絡は列車番号の誤記だと解釈した。 結果として拝島駅では最初の連絡に従い上り列車を小宮駅に向け発車させ、小宮駅では変更した運転順序の連絡ができていると思い込み、下り列車を拝島駅に向け発車させた。 本来、指導式は、閉塞区間両端駅の駅長が相互に連絡を取り、閉塞区間内に列車がないことを確認した上でタブレット(もしくはスタフ)の代替となるただ1人の指導員を列車に添乗させて運行する方式である。 つまり、その区間で一人だけ選任される指導員の乗った列車のみがその閉塞区間内を運行可能となるが、このときは原則に反した取り扱いがなされるとともに、双方の駅長が連絡が不十分で、両者の思い込みが食い違ったために正面衝突事故を引き起こした。 2001年に当時の車両の車輪が川の中州から引き上げられ、2004年に河原の公園脇に設置された(由来が当事故以外には考えられないため、当事故の遺物と認知されている)。 中央線笹子駅構内脱線転覆事故 [ ] 1945年(昭和20年) 中央線構内で、スイッチバックのため折り返し線に午前3時41分に到着した下り403列車(4号機牽引)が車止めを突破し、機関車と客車9両のうち3両が大破転覆した。 死者60名、負傷者91名。 原因は機関車の乗務員の居眠り運転とされている。 (元帝国ホテル社長)の両親が事故に巻き込まれ死亡した。 神戸有馬電気鉄道電車脱線転覆事故 [ ] 1945年(昭和20年) 神戸有馬電気鉄道(現・)鷹取道駅(現・) - 間を走行中の神戸行き上り電車(2両編成)が33の下り勾配でブレーキ制御が不能になり、長田付近の曲線で脱線転覆した。 死者48名、負傷者180名。 事故原因として電車運転士の制御ミスとされているが、終戦直後のため電車の整備状態も悪かったことも背景にあるとされる。 津山線列車脱線事故 [ ] 1945年(昭和20年) [ ] - 間を走行中の上り第611客車列車(127号機牽引、4両編成)において、機関士が後部確認の際に2両目客車が異常に傾いているのを発見、列車を止めて調べたところ車内で乗客5人が死亡、6人が負傷していた。 前位車輪が車軸の破損により脱線分離しており、終戦直後の物資の不足が背景にあったとされている。 富士山麓電鉄正面衝突事故 [ ] (昭和21年) [ ] 富士山麓電鉄(現・)の(現・)にあるトンネル入口で午後5時過ぎごろに乗客200名を乗せた大月発吉田行き電車(3両)が、田野倉発の電車(2両)と正面衝突。 双方とも先頭車両が大破して死亡26名、負傷者多数。 東武日光線衝突事故 [ ] 1946年(昭和21年) [ ] (現・)にある東武日光線ののポイント部分を午前7時30分、東武日光発の浅草行の電車が差しかかったところブレーキ故障で減速できず、そのまま高速でポイントに乗り上げて脱線転覆。 乗客7名が死亡。 東武日光線は現在全線複線だが、戦争に伴う鉄供出のため、事故当時は一部単線だった。 東急小田原線列車脱線転覆事故 [ ] 1946年(昭和21年) 当時の路線だった大根駅(おおねえき、現・)からまでの区間は、上り勾配が延々と続いており、事故の発端はここで発生した。 事故を起こしたのは、東京急行(現・小田急電鉄)を午前7時50分に発車した行き2両編成の電車(第294列車)で、この電車が停電のため15分遅れで大秦野駅(現・)を発車したところ、駅から約500mの地点で再び停電し、運転士は制動機をかけて停車したが、まもなく送電。 その際、制動機故障により電車がひとりでに逆行し始めたため、運転士と車掌が下車して車体点検を行ったが、電車は徐々に速度を増し、運転士と車掌は取り残されてしまった。 死者30人、重軽傷者165人。 国府津駅構内列車追突事故 [ ] 1946年(昭和21年) 1946年5月8日午前2時ごろ、東海道本線国府津駅に24分遅れで到着し、20分延発予定で停車中の1761貨物列車(牽引、現車61両)に、 後続の臨時旅客3801列車(牽引、現車9両)が、機関士および機関助士の居眠りが原因で場内信号の停止を見落とし激突(追突)した。 牽引のEF57形12号機は1761列車の後部貨車に乗り上げ、ついで左側に脱線転覆した。 貨物列車の貨車は後部2両と、16両目を粉砕しほか7両が脱線した。 この事故で貨物列車の後部車掌が即死し、3801列車の機関士と乗客6名が負傷した。 この事故で大破したEF57 12は修復されず1948年に除籍、事故廃車となった。 この事故の後、連合軍総司令部から特別指示(1. 自動閉塞区間での緩急車の連結および車掌の乗務の省略の禁止、2. 信号注視は機関士のみならず機関助士にも義務づけ、信号確認時には機関士、機関助士は信号の現示状態を喚呼応答すること、3. 列車防護をブレーキ距離によって3種類に区別、4. 列車監視は乗務員のみならず駅職員も行うこと)が出ている。 中央線乗客転落事故 [ ] 1946年(昭和21年) - 間で、東京行き上り800B電車(6両編成)の4両目の中央扉が満員の乗客の圧力により外れたため、乗客3名が車外に投げ出されに転落して死亡した。 応急対策として扉に外れ止めが取りつけられ、恒久策としては鋼製扉への取り替えが進められた。 しかし皮肉にも、外れない鋼製扉がでの被害増大を招くこととなる。 東海道本線山科駅構内列車脱線転覆事故 [ ] 1946年(昭和21年) [ ] 1946年6月12日午後1時52分ごろ、構内において蒸気機関車牽引138列車(牽引、現車10輌換算45. 5輌)が京都駅16分延発・山科駅20分延着予定で進入の際、構内第20号付近にのが置かれていたため、これに接触し牽引機関車が脱線転覆したほか、次位に連結されていた客車2両も脱線する事故となった。 死者2名、負傷4名。 トロリー列車車輪が放置されていた理由は不明であるが、何者かによる妨害によるものと見られている。 尾道鉄道電車脱線転覆事故 [ ] 1946年(昭和21年) (に全線廃止)の発行電車(尾道鉄道デキ1)が、途中駅であるを午後1時ごろに発車し尾道鉄道第五トンネルの登り急勾配にさしかかった際に、突如集電ポールが外れ停止、やがて猛烈な速度で退行し始め1kmほど逆走し急カーブで脱線、山腹に衝突し大破した。 「カーブに差しかかり電車の屋根が電柱に衝突、屋根と車体が真っ二つになったうえ、車両は川下へ転落」という証言もある。 車両長約10mの単行車両に約150名の乗客という超満員状態だったこともあり、死者37名および負傷者100名以上 を出すという惨事となった。 当時の新聞発表によると、事故原因は運転士の経験が浅く適切な対処ができなかったこと、およびブレーキの不具合を原因に挙げている。 この事故を受け、尾道鉄道は車両のをトロリーポールからビューゲルを経てパンタグラフへと変更した。 富山地方鉄道上滝線電車三重衝突事故 [ ] 1946年(昭和21年) にて、行きの電車が後部車両の解結を行い出発。 解結された電車は、いったん別編成に連結したものの、連結が外れ駅構内の下り勾配に沿ってを暴走。 暴走車両は、老朽化した代用車でありブレーキが効かなかった。 駅員らの機転により、 - 上滝公園下駅(現・)にて、先行する富山駅行き電車を徐行させ暴走する車両を受け止めて停止させることに成功させたが、その直後、岩峅駅から暴走車両を追いかけてきた電車が編成に衝突。 結果的に三重衝突事故となった。 死者1名、重傷者6名、軽傷者6名。 事故原因は、連結の不備、車両の老朽化、救援側電車の暴走などとしている。 上越線下牧信号場列車衝突脱線事故 [ ] 1946年 昭和21年 11月3日 1946年(昭和21年)11月3日 13:21頃、下牧信号場にて、優等列車(現車10輌)が進入した際に、本来なら通過定位であるが、当日は駐留軍専用列車との行き違いのため臨時停車すべき所を失念し停止信号を冒進。 安全側線に突入し牽引機および客車2両が脱線の上築堤から転落する事故発生。 後方の客車2両も脱線傾斜、死者7人(キャブ添乗中の駐留軍兵士2含む)・負傷33人。 当時はキャブに駐留軍兵士が無理やり乗り込み列車を運転する事件が再三にわたり発生していた。 八高線列車脱線転覆事故 [ ] 八高線事故慰霊碑 (昭和22年) 7時50分 - 間の20下り勾配で、C57 93が牽引する超満員(屋根の上に乗客を乗せざるを得ないという異常ともいえる運転状態が常態化していた)の乗客を乗せた、八王子発高崎行き(93号機牽引、5両編成)の下り普通3列車が、過速度により半径250mの曲線を曲がりきれずに後部4両が脱線し、築堤上から5. 6m下の畑に転落。 客車の木造車体が大破し、184名が死亡し495名が負傷するという大事故となった。 死傷者の大部分は食料買出し目的の乗客だった。 列車は超満員の乗客によって加重されたことにより、下り勾配で十分なブレーキが効かず、車両は事故の直前、左右に激しく揺れていた。 184名という死者は(昭和15年)1月に発生したに次ぐものであり、負傷者とあわせた被害者数では当時最悪の鉄道事故だった。 この事故で、事故車両が木造客車だったために被害が拡大したことからその脆弱性が問題視され、木造車の淘汰が決定したが、鋼製客車の新規製造のみによる置き換えはコスト的に困難だったため、木造客車の台車と台枠を再利用し、その上に鋼製車体を載せる鋼体化改造が実施されることになった。 室蘭本線列車衝突事故 [ ] 1947年(昭和22年) - 間の第二静狩トンネル内において、下り旅客225列車(、7両編成)と上り臨時貨物5388列車(、46両編成)が正面衝突したもの。 死傷者64名。 小幌信号場における指示伝達の錯誤、ならびに貨物列車の信号確認不足が主たる原因とされている。 詳細は「」を参照 田端駅電車追突事故 [ ] 1947年(昭和22年) 8時43分、京浜線(現・)手前で場内信号機の停止現示で停止中の下り行き855A電車(6両編成)に、後続の行き869A電車(6両編成)が追突。 両電車の乗務員4名が死亡、乗客114名が負傷した。 原因はがない時代にも関わらず、後続電車運転士の見込み運転とブレーキ操作の遅れであった。 名鉄瀬戸線脱線転覆事故 [ ] (昭和23年) の発(現在は廃止)行きが、大森駅(現・)東側にある半径160mのカーブに差しかかったところ、後部の車両サ2241形(元佐久鉄道の国家買収気動車)が脱線転覆し大破。 そのまま50mほど引きずられ、前方の電動車モ565形も転覆した。 この事故により、36人が死亡、153人が負傷するという、瀬戸線史上最悪の事故となった。 阪神久寿川駅でホームに衝突して停車した電車 1949年(昭和24年) の電車(2両編成603、608)が、でコンプレッサーの故障によりブレーキが緩まなくなったため修理を行った際、誤ってドレンコックを開きエアーが抜けたためブレーキが緩み、電車は40 の下り急勾配を走り出した。 運転士と乗客が協力してハンドブレーキを回したが効果はなく、の半径60m の急カーブを曲がり、を突破して、当時線路が接続されていたにポイントを粉砕して入り込んだ。 運転士は乗客に後ろの車両に移るよう指示し、阪神の方がが小さかったため隣ののホームに衝突してようやく止まった。 途中で窓から飛び降りた2名が負傷した。 阪神線の大阪行き急行が通過直後で、1分後には普通電車が迫っていたため、タイミングがずれていればのような大惨事になっていた恐れがあった。 今津線から2両編成(924、954)が救援に向かい、久寿川駅で事故車両と連結した際の鮮明な写真が残されている。 『』大阪本社版で「阪急、阪神に"殴り込み"」と報道された ため、「 殴り込み事件」という通称がある。 事故後、今津駅のは車止めを変えたもののレールは接続されたままであった が、後年分断された。 この事故を踏まえて、2014年7月にが改造を受けるためまで走行した際に、阪神電鉄が神戸新聞の取材に「(阪急の車両が阪神の線路を)合法的に走るのは初めて」と答えている。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 1934年(昭和9年)6月1日に大阪駅の東海道本線・城東線ホームは高架化されたが、その時点では西成線は地上に残っていた。 一部の資料では1両。 『大鐵全史』掲載の「車輌内訳表 昭和17年9月末現在」ではデハ100形101-115のうち104、 114、デニ500形501-535のうち 502、520、 529が欠番となっている。 このため、533、534、535が6602、6620、6629と改番されている。 死傷者数は『続・事故の鉄道史』による。 『東京朝日新聞』1931年1月13日付夕刊では「肝腎の機関手が絶命して原因取調に支障」とあるが誤報で、実際は重傷を負いながらも生存している。 なお、これがきっかけでを信仰するようになったとされる。 会社側資料による。 当時の新聞発表では死者45名および重軽傷者56名。 朝日新聞の記事には"阪急、阪神へ不意打乗入れ"とも書かれている。 出典 [ ]• , p. 81、• , pp. 1—18. 久保田博「鉄道の安全はどのようにして守られてきたか」『鉄道ファン』No. 295• , p. 717. , pp. 47—50. , pp. 115—116、。 , pp. 175—178、。 , pp. 1—22. , p. 208、。 , p. 209、。 , pp. 116—120. 『』1907年6月2日付「感心なる踏切番」・5日付「興風会と殉職踏切番」• 産経WEST、2016年8月10日閲覧。 千葉正義 2008年4月5日. 2015年4月5日閲覧。 千葉正義 2011年5月31日. 朝日新聞. 2015年4月5日閲覧。 『』2011年6月26日付朝刊「104年前の鉄道員の勇気語る紙芝居 作者の息子がJR西に寄贈へ」• , p. 285、。 , pp. 285—286、。 , p. 草卓人編、『鉄道の記憶』、2006年(平成18年)2月、桂書房• 富山市史編修委員会、『富山市史』第二巻、1960年(昭和35年)4月、富山市役所• 『交通世界』大正4年2月15日号• , pp. 452—454、。 39—61. , pp. 262—265、。 150-156. , pp. 471—477、。 , pp. 352—355、。 , pp. 220—222、。 , pp. 63—84. , pp. 85—101. , pp. 141—142、。 , p. 124. , p. 818. , pp. 103—120. , pp. 113—116. , pp. 121—142. 『大阪朝日新聞』1926年10月15日付朝刊(『』2012年11月号に再録)• 『新愛知』では発、『朝日新聞』では発• 『新愛知』では駅南五丁、『朝日新聞』では駅南一丁となっているが、当該列車は南西から北東に進む線形であり、状況説明と整合しない。 『新愛知』では西手金(の誤植か)発、『朝日新聞』では発• 『朝日新聞』朝刊、1928年4月2日• 『東京朝日新聞』1928年7月5日付朝刊• 『東京朝日新聞』1928年7月4日付朝刊• , pp. 143—164. , p. 123. 『大阪朝日新聞』による。 『』では「17号」。 『大阪毎日新聞』1929年4月15日付朝刊7面• 『大阪毎日新聞』1929年4月16日付夕刊2面• 『大阪毎日新聞』1929年4月21日付夕刊2面• 『大阪朝日新聞』1931年1月13日付朝刊• 「山陽線椿事の原因と大塚副参事以下の責任判明」『』1931年4月12日。 , pp. 43—61. 『大阪朝日新聞』1934年9月23日朝刊2面• 「過失と認定愈よ起訴 京都地検で慎重審理の結果 瀬田川列車顛覆事件」『』1934年10月10日。 『大阪朝日新聞』1934年10月4日朝刊3面「台風に煽られて切実に無電欲 鉄道、警察に必須論 通信統制から逓信省は反対」• 久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その5」交友社 1986年3月号88頁• 久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その5」交友社 1986年3月号88-89頁• , pp. 63—76. , pp. 183—208. , pp. 209—227. 久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その5」交友社 1986年3月号89-90頁• 沢柳健一「63形の時代」電気車研究会 1995年9月号55-63頁• 157. 久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その5」交友社 1986年3月号90頁• , pp. 65—69. , pp. 229—252. (監修)『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』21号 釜石線・山田線・岩泉線・北上線・八戸線、朝日新聞出版分冊百科編集部(編集)、〈週刊朝日百科〉、2009年12月6日、18頁、13-19頁。 久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その5」交友社 1986年3月号91-92頁• 神戸新聞. 2005年8月25日. の2008年8月21日時点におけるアーカイブ。 2019年4月1日閲覧。 神戸新聞. 2003年8月8日. の2004年12月24日時点におけるアーカイブ。 2019年4月1日閲覧。 森信弘 2019年3月31日. 神戸新聞NEXT. の2019年4月1日時点におけるアーカイブ。 2019年4月1日閲覧。 読売新聞 : pp. 阪神版31面. 2019年3月31日. の2014年2月1日時点におけるアーカイブ。 2019年4月1日閲覧。 『』2011年2月12日朝刊姫路・西播磨版「北条線列車転覆事故の動輪、大阪で発見 高砂の上谷さん」• , p. 220. , p. 363. 「乗務員の居眠り 中央線笹子駅の事故」1945年9月8日付『朝日新聞』(東京) 聞蔵IIビジュアル(朝日新聞)• 『』1990年7月5日• 久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その6」交友社 1986年5月号116-117頁• 久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その6」交友社 1986年5月号117頁• , p. , p. 700. 久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その6」交友社 1986年5月号118頁• 久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その6」交友社 1986年5月号119頁• , pp. 117—137. , p. 『朝日新聞』大阪本社版1949年12月14日付夕刊2面。 『』1949年12月18日阪神版「暴走電車の車止め 阪急今津線に設置」• 2015年5月27日閲覧 参考文献 [ ]• 大山町『大山町史』大山町、1964年。 尾道学研究会『タイムスリップ・レール…オノテツ』尾道学研究会、2011年。 『兵庫の鉄道全駅 JR・三セク 鉄道遺産、木造駅舎を訪ねて』、神戸新聞総合出版センター、2011年。 佐々木冨泰、網谷りょういち『続・事故の鉄道史』日本経済評論社、1995年。 (監修)『大鐵全史』、1952年。 『静岡県鉄道物語』静岡新聞社、1981年。 『碓氷峠を越えたアプト式鉄道 66. 7パーミルへの挑戦』〈交通新聞社新書 076〉、2015年。 荘田啓介『豊肥線物語』、1987年。 武村雅之「 」 『歴史地震』第25号、歴史地震研究会、2010年、 124頁、 2015年4月6日閲覧。 逓信省鉄道局『』逓信省鉄道局、1900年。 鐵道作業局『』鐵道作業局、1898年。 『国有鉄道震災誌』鉄道省、1927年。 鉄道省大臣官房研究所『』鉄道省大臣官房研究所、1922年。 鉄道省大臣官房研究所『』鉄道省大臣官房研究所、1923年。 鉄道省大臣官房研究所『』鉄道省大臣官房研究所、1925年。 鉄道省大臣官房研究所『』鉄道省、1927年。 鉄道大臣官房文書課『』上編、鉄道省、1921a。 鉄道大臣官房文書課『』中編、鉄道省、1921b。 鉄道大臣官房文書課『』下編、鉄道省、1921c。 富山地方鉄道『富山地方鉄道五十年史』富山地方鉄道、1983年。 『』第1巻、日本国有鉄道、1969年。 箱根登山鉄道『箱根登山鉄道のあゆみ』箱根登山鉄道、1978年。 『阪急電車駅めぐり 空から見た街と駅』神戸線の巻、阪急電鉄、阪急電鉄総務部広報課、1980年。 舟越健之輔『「大列車衝突」の夏』毎日新聞社、1985年、初版。 『昭和史事典』毎日新聞社〈別冊1億人の昭和史〉、1980年。 丸山久一「写真で見る雪崩による鉄道事故について」『雪氷』第39巻第3号、、1977年、 150 - 156頁、。 『車両アルバム19 阪急 600』レイルロード、レイルロード、2015年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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小田急線が乗用車と衝突、脱線 20日始発から運転再開:朝日新聞デジタル

小田急 脱線

東京の電車「小田急電鉄・路線の沿革-2-」 鉄道事故史 発生年月日 事故名 事故内容 1946年 昭和21年 01月28日 東急小田原線列車脱線転覆事故 当時東京急行電鉄の路線 大東急 だった小田原線大根駅 おおねえき、現・東海大学前駅 から渋沢駅までの区間は、上り勾配が延々と続き、事故の発端はここで発生しました。 事故を起こしたのは、東京急行 現・小田急電鉄 新宿駅を午前7時50分に発車した小田原駅行き2両編成の電車 第294列車 で、この電車が停電のため15分遅れで大秦野駅 現・秦野駅 を発車したところ、駅から約500mの地点で再び停電し、運転士は制動機をかけて停車しましたが、間もなく送電。 その際、制動機故障により電車がひとりでに逆行し始めたので、運転士と車掌が下車して車体点検を行いましたが、電車は徐々に速度を増し、運転士と車掌は取り残されてしまいました。 死者30人、重軽傷者165人。 1961年 昭和36年 01月17日 小田急線列車衝突転落事故 小田急電鉄小田原線「和泉多摩川〜登戸駅」間、多摩川土手にある和泉多摩川2号踏切 事故当時は第3種踏切:踏切遮断機なし、踏切警報機のみ で、新宿発各停向ヶ丘遊園行き下り列車 2400形4両編成 とダンプカーが衝突した。 ダンプカーが踏切鳴動中の踏切を突破しようとしたことが原因とみられてます。 この事故でダンプカーは鉄橋上約100m程登戸駅側に引きずられ炎上し運転者が死亡した。 一方、列車は先頭車が多摩川の河川敷に転落、2両目は鉄橋から宙吊り、3両目は脱線、4両目 最後尾 は無傷。 運転士1名と乗客約数十名が重軽傷。 この事故後、現場踏切は車両通行止めとなりました。 その後事故から40年余りが過ぎた2004年頃に高架線が完成しこの踏切は廃止されました。 2014年 平成26年 6月19日 小田急大野検車区入換線車両脱線事故 2014年6月19日午後6時10分頃、小田急線の大野検車区入換線のポイントレールにて脱線事故が発生しました。 相模大野駅に向かう最中の回送電車 1754F がダブルクロスポイント内で脱線、中間3両ほどが脱輪をしました。 この事故を受けて小田原線の新百合ヶ丘と相武台前の間の上下線と、江ノ島線の相模大野と大和の間の上下線で運行が出来なくなり、翌20日まで混乱は続きました。 小田急相模大野駅構内 相模原市南区 で回送電車が脱線した事故で、小田急電鉄は24日、脱線現場付近のレールが約8mm摩耗していたと明らかにしました。 レール取り換え基準の11mm未満だったが、摩耗により車輪の引っかかりが弱くなった上、カーブで外側への横圧が強まるなどして脱線した可能性があるとの見方を示しました。 小田急電鉄によると、脱線したのは6両編成のうち、3,4両目と、最後尾の6両目の計3両。 同社が現場付近を調査した結果、レール表面が約8ミリ摩耗し、車輪と接触する角度が低くなっていたことが判明。 また、事故前日の6月18日には点検作業の一環として、2〜6両目の車輪表面を数ミリ削っていたことも明らかになりました。

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小田急小田原線の本厚木~愛甲石田駅間で起きた車と電車の事故 小田急線 踏切で車と衝突し脱線 神奈川 厚木 小田急電鉄や警察などによりますと、午後3時まえ、神奈川県厚木市船子の小田急線の踏切で、立往生していた車に下りの快速急行が衝突し、列車が脱線しているということです。 これまでのところけが人はいないということで、警察が詳しい状況を調べています。 19日午後3時前、神奈川県厚木市船子の小田急線の踏切で立往生していた乗用車に、下りの小田原行きの快速急行が衝突し、先頭車両が脱線しました。 警察によりますと、乗用車を運転していたのは20代の女性で、踏切の中で動けなくなったため非常ボタンを押しましたが列車のブレーキが間に合わず衝突したということです。 女性は車の外にいて無事でしたが、気分が悪くなり、病院に搬送されたということです。 小田急電鉄によりますと、これまでのところ列車の乗客にけがをした人はおらず、列車から降りてもらい線路の外に避難させたということです。 警察が事故の詳しい状況を調べています。 引用元:小 事故現場 小田急小田原線の本厚木~愛甲石田駅間にある踏切内で起きたということです。 運転者は、28歳の女性 乗用車を運転していたのは、28歳の女性ということです。 緊急停止ボタンを押したけれど間に合わずに、このような状況になったようです。 運転見合わせの状態になっているので、これから通学や通勤で利用している人たちにとっては、非常に迷惑な話でもあります。 小田急線の脱線、今日中の復旧は難しいとの情報が入ってきてるらしい。 電車内のアナウンスでお姉さんが言うてる — 華咲 菖 ayame1102 【メトロホームウェイ 下り線 運休列車のご案内】 東京メトロ千代田線・小田急小田原線の特急ロマンスカーは、14:52頃、小田原線内での踏切事故の影響で、「メトロホームウェイ号 本厚木行」が全列車・全区間で運休となります。 小田急電鉄によりますと脱線したのは先頭車両で、列車の乗客にけがはなく、事故のあと、線路に降りてもらい近くの踏切に避難させたということです。 この事故の影響で小田原線は午後3時前から本厚木駅と伊勢原駅の間で、上下線とも運転できなくなっています。 脱線した車両を移動させたり、衝突した乗用車を線路内から撤去したりする作業などがあるため、19日中に運転再開する見通しはたっていないということです。 小田急電鉄は本厚木駅と伊勢原駅の間で代行バスを運行しています。 引用元: まとめ【小田急脱線事故、乗用車運転手は20代女性!事故現場の場所とまとめ【動画】】 今回は、 小田急小田原線の本厚木~愛甲石田駅間で起きた車と電車の事故について、事故現場、運転していたのは28歳の女性、小田急線の運転再開目途をまとめてみました。 現在のところ、運転再開の目途はたっていないものの「 小田急電鉄は本厚木駅と伊勢原駅の間で代行バスを運転」とのことですが、いつも利用している方は、これから家路につくまでの交通手段をしっかりと調べたうえで行動した方がいいと思います。 一刻も早く、運転再開をしてほしいところですね。

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