斎藤 道 三 家 系図。 斎藤道三の家紋の意味について

3分でわかる斎藤道三(利政)!織田信長との関係や最期の様子を紹介!

斎藤 道 三 家 系図

戦国時代を象徴するもののひとつに、「下剋上」という言葉があります。 下が上を剋する、すなわち下位のものが上位の者を倒してその地位に成り代わることを指しています。 家臣が主君を討つ、子が親を退ける、そんな厳しく目まぐるしいパワーゲームの時代と言い換えてもよいでしょう。 その規模は大変に大きく、一国の統治者すら下剋上によって交代することも珍しくありませんでした。 なかでも有名な下剋上大名の一人として、「斎藤道三」の名を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。 着々と力を蓄えて美濃(現在の岐阜県あたり)の国主「土岐氏」を放逐し、事実上の統治者となった道三はその権謀術数から「マムシ」の異名で知られています。 一方で、織田信長の岳父としての位置づけから語られることも多く、若き信長の将来性を見抜いた先見の明の持ち主というイメージも強いでしょう。 伝説に彩られた人物ですが通説と史実には異なる点も多く、近年では新たな「斎藤道三像」が浮かび上がりつつあるようです。 そんな道三による、美濃斎藤氏の家紋についてのお話です。 (文=帯刀コロク) 【目次】• 「斎藤 道三」の出自とは これまでといえば、一介の油商人から身を興して武将となり、やがて美濃一国を手中に収めた人物という伝説が語られてきました。 銭の小さな穴を通して油を注ぎ、少しでも油がこぼれたら代金をとらないというパフォーマンスで評判となった、というエピソードが有名ですね。 その技前を惜しまれたことがきっかけで武士に転向し、主家の家督争いに乗じたクーデターで事実上の美濃国主となった……という流れが従来の説でした。 しかし、発見された文書の内容などから「国盗り」は道三一代によるものではなく、その父の代からの事業と考えるのが現在の定説となっています。 まだ不明な点は多いものの、『岐阜市史』によると道三の父「新左衛門尉」は京都・北面の武士の家系でした。 一度は僧侶となり、還俗して美濃の国主・土岐氏の家臣であった長井氏に仕えたといいます。 したがって道三もこの父のもと、武士として育てられたものと考えられています。 有名な油売りなどのエピソードは、新左衛門尉の事績と混同された部分が大きいという可能性も指摘されています。 新左衛門尉は後に姓を「長井」に改め、その家督を継いだ道三は当初、「長井規秀」などと名乗りました。 土岐氏の家督争いのさなか、道三は美濃守護代・斎藤氏の名跡を継いで「斎藤」を称します。 このときは「斎藤利政」などの名が見え、この名乗りが美濃国統治者としての道三の通り名だったと考えられます。 よく知られている「道三」は法名で、最晩年の二年間ほどの名だったようです。 まるで蛇が脱皮を繰り返すように、名を変えて主家にとって代わり、こうして「斎藤道三」ができあがっていきました。 美濃斎藤氏の紋について 道三が使用した家紋には、いくつかの種類が想定されています。 中でも道三オリジナルと考えられているものが「二頭立波」の紋です。 これは菩提寺である「常在寺」が所蔵する道三肖像画の裃に描かれているもので、文字通り波頭と飛沫をデフォルメした図案となっています。 斎藤道三の家紋「二頭立波」 二頭立波の紋が描かれている斎藤道三の肖像画。 道三の出自にはまだ不明な点が多いため、代々使用した本来の紋が何か、あるいは存在したのかということはわかっていません。 しかし、道三(美濃斎藤氏)は主家の当主に成り代わる方法でのし上がっていったことから、それぞれの氏族の家紋を時々によって用いたのではと考えられています。 例えば斎藤氏を称する前の長井姓時代には、長井氏の紋である「一文字三星」が使われました。 これは中国の毛利氏の紋とよく似ていますが、「一」の部分が毛筆体ではなく長方形となっているのが特徴です。 家紋「一文字三星」 一方、美濃国守護代であった本来の斎藤氏は「撫子(なでしこ)」の紋を用いていました。 しかし斎藤氏の名跡を継いだ道三が撫子紋を使ったという確実な記録が見つかっておらず、先述の二頭立波をメインの紋と位置付けていたと考えられています。 家紋「撫子」 また、道三の嫡男である「」は「五三桐」の紋を使用しているのが確認され、氏族としての一貫した紋が定着していたわけではないようです。 桐紋の中でもっともベーシックな「五三桐」 波の紋に込められた思いとは? 道三が考案したとされている二頭立波の紋が、何に着想を得たものかはわかっていません。 しかし、寄せては返す波の様子で戦や兵法の極意を示したものという解釈もあり、独自の哲学を表現したとしても不思議はないでしょう。 また、本来の斎藤氏が使用した撫子紋は、花弁の細かい形状を別にすると国主・土岐氏の「桔梗紋」とそっくりなレイアウトとなっています。 これは遠目では両者の見分けが困難であったことが予想され、陣中での部隊識別に支障をきたす可能性も指摘されています。 家紋「桔梗」 道三はあえてエンブレムを刷新することで自己の存在と部隊の所在を明確にし、新たな統治者であることを示す意図もあったのかもしれませんね。 まとめ 主家に取って代わり、やがては一国を支配するまでの地位に上り詰めた斎藤道三。 オリジナルの家紋を創り出したことから、自身の新しい「斎藤家」にも強いこだわりがあったのでしょうか。 しかし有名な話では、道三は嫡男の義龍よりも娘婿の織田信長を高く評価し、遺言状に美濃一国を信長に譲る旨を記したとされています。 このことから、自身の血縁への家督相続よりも、有能で力のある者が国を統治すべきという信念を持った人物だったとも考えられます。 謀略渦巻く戦国の世を生き抜いた道三は、生粋のリアリストだったのでしょう。 紋に描かれた波のように、押し寄せるべき時と退くべき時の「機」を体で理解していたのではないでしょうか。 【参考文献】• 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ• 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研• 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社• 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科• 『岐阜市史』 岐阜市 1928.

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濃姫(帰蝶)とは?織田信長の妻の最後など、その生涯を解説!

斎藤 道 三 家 系図

【 1539年】(46歳) 居城「 」を、改築し、難攻不落の名城へ造りかえる 【 1541年】(48歳) 「道三」が「土岐頼芸」の弟「土岐頼満」を毒殺 【 1547年】(54歳) 加納口の戦い 【 1548年】(55歳) 娘「 」を「織田信長」に嫁がせる 【 1552年】(59歳) 美濃を統一 【 1554年】(61歳) 鷺山城で隠居 出家して「斎藤道三」と名乗る 【 1555年】(62歳) 「斎藤義龍」が父「道三」にたいして挙兵。 【 1556年4月】(63歳) 「長良川の戦い」 「斎藤義龍」と「斎藤道三」が開戦。 「斎藤道三」戦死。 (享年63歳) 【 1567年】(織田信長34歳) 織田信長が「稲葉山城」を攻略 「岐阜城」と改名し、本拠地とする 以下のリンク記事で、「斎藤道三」の「さらにくわしい年表」をご紹介しております。 斎藤道三の「娘・息子・家族」 「斎藤道三」の妻と子供たち 【 正室・側室】• 小見の方(正室)• 深芳野(側室) (その他にも側室がいた可能性が高い) 【 息子】• 斎藤義龍• 斎藤孫四郎• 斎藤喜平次• 斎藤利堯(さいとう としたか)• 斎藤利治(さいとう としはる)• 長井道利(ながい みちとし)• 松波政綱(まつなみ まさつな)• 養子:斎藤正義 【 娘】• 姉小路頼綱・正室• 土岐頼香・室• 帰蝶(織田信長の正室)• 土岐頼純・室• 斎藤利三・正室• 伊勢貞良・正室• 稲葉貞通・正室 斎藤道三には、数多くの子供たちがいます。 そんな道三の子供たちの中で、とくに有名な人物は、二人。 ひとりは、「織田信長」の妻である「濃姫」こと「 帰蝶」。 もうひとりが、「斎藤道三」を倒した息子「 斎藤義龍」。 義龍のほかにも、道三には「孫四郎」「喜平次」という二人の息子がいたと言われています。 しかし、斎藤義龍が謀反を起こした際に、この二人の息子たちは殺害されています。 道三の妻といえば、「明智光秀」の叔母にあたると言われている「小見の方」が有名です。 《斎藤義龍》 「引用元より」 つまり、「斎藤道三」に下される前から、「深芳野」は「斎藤義龍」を身ごもっていたのではないか、と言われているわけです。 「斎藤道三」を討ち果たした「斎藤義龍」・・・。 結論から言えば、「道三」と「義龍」が親子でない可能性は、低いと思います。 「実は親子ではなかった」 という話は、かなり昔からよくある話です。 こういった話は「血筋の正当性をおとしめるための、一種のプロパガンダ(政治宣伝)」に使われていたのです。 「土岐頼芸」という人は、「斎藤道三」によって美濃国から追放された人物です。 もし「斎藤義龍」が「土岐頼芸」の息子なら、「斎藤道三」を討ち果たしたことで、父の仕返しをしたことになります。 しかし、実際のところ斎藤義龍は 「土岐頼芸の息子だから、斎藤道三を討ち果たした」 わけではなく 「仲が悪かった父親の『斎藤道三』を倒すため、『土岐頼芸』の息子だと名乗ったほうが、『道三』を討つ大義名分が出来るから、都合が良かった」 のだと思います。 道三と義龍は、実の親子でしょう。 ちなみに義龍は、道三を討ち取ったあと、「斎藤」という苗字から母方の「一色」という姓を名乗っています。 「道三と義龍」は、実の親子だろう、と申しました。 一方で、道三は「義龍」について 「自分の子ではなく、土岐頼芸の子である」 ということを、自らほのめかしてもいました。 道三が義龍に家督をゆずって、引退する際、家来たちに 「自分は引退するが、義龍が美濃支配の正当な血筋の者だと、わかっているだろうな・・・。 」 ということを言っているのです。 もしも「義龍」が「土岐頼芸」の息子なら、「美濃国守護」の正当な後継者ですから、道三から美濃国主の地位をゆずりうける権利があります。 また、美濃国の豪族たちに、命令をする権威と権限を持つことになります。 道三は「義龍は土岐頼芸の息子かもしれない」という噂を利用して、自分たち「斎藤家」による美濃支配に、正当性をもたせようとしたのでしょう。 おそらく道三は、「義龍が自分の子」だということを確信していた上で、「義龍は実子ではない」という噂を最大限利用したのだと思います。 「斎藤道三の子供達や家族」について、以下のリンク記事で、「さらにくわしく解説」しております。 よろしければお役立てくださいませ。 斎藤道三と「美濃」「岐阜」との関係とは? 「美濃」、現在の「岐阜県」南部は、斎藤道三の本拠地でした。 現在の岐阜市にある「岐阜城(稲葉山城)」は、【 1201年】に稲葉山の山頂につくられた砦がはじまりです。 道三の父「松波庄五郎(または庄九郎)」は、この稲葉山城を敵から奪い取って居城としたのです。 父から「稲葉山城」をゆずりうけた道三は、この「稲葉山城」を居城として、隠居すると同時に息子「斎藤義龍」に城をゆずります。 その後、義龍の息子「斎藤龍興」が稲葉山城を居城としたものの、織田信長に敗れて逃亡。 織田信長は、それまでの居城「小牧山城」から移動して「稲葉山城」を居城とし、増築して「岐阜城」と改名。 「岐阜」という名前の由来は2つあります。 古代中国の名君「武王」が、天下統一した際の本拠地「岐山(きざん)」• 「武王」の弟である大政治家「周公旦(しゅうこうたん)」が治めた地であり、儒教の「孔子」の故郷「曲阜(きょくふ)」 この「岐山」と「曲阜」から1文字ずつとって「岐阜」と命名したのです。 現在の「岐阜市」は、斎藤道三がつくった街「井ノ口」が基礎となっています。 《岐阜城》 『引用元:さんによる写真ACからの写真』 「尾張の虎」と呼ばれた猛将「織田信秀」が、何度攻撃しても、びくともしなかった堅城です。 この城は、織田信長をも苦しめ、【 1556年】に道三が亡くなってから、信長によって落城する【 1567年】まで、実に11年間も斎藤家を守り続けました。 その後、岐阜城は以下の武将たちが居城として治め続けました。 信長の嫡子「織田信忠」• 信長の三男「織田信孝」• 信長の乳兄弟「 」の次男「池田輝政」• 「 」の甥で「豊臣秀次」の弟「羽柴秀勝」• 信長の孫で信忠の嫡子「織田秀信(三法師)」 岐阜城には弱点もあったらしく、落城するときはあっけなく落ちていますね。 【 1564年】、のちに「羽柴秀吉」に仕えることとなる天才軍師「竹中半兵衛重治」によって、「稲葉山城」はわずか「数十名」に攻め落とされます。 道三がつかっていた「刀」や「鎧兜」は、今どこにあるのか? 結論から言ってしまうと、斎藤道三が愛用していた「刀」は、現存していません。 どこかにあるかもしれませんが、どこにあるかは不明です。 また、「道三が、どのような刀を愛用していたのか」についても、何も伝わっていません。 ただ、「道三」の息子、「義龍」が、弟「孫四郎」「喜平次」を討ち果たした「有動刀」(うどうとう)」という名刀は、名前のみ伝わっています。 この「有動刀」も行方不明です。 日根野弘就(ひねの ひろなり)という武将が、「孫四郎」「喜平次」を、一振りでまとめて斬り倒したという逸話があります。 ただ、斎藤道三が持っていたという兜と鎧「紅糸中白縅胴丸(べにいとなかしろおどしどうまる)」が、「岐阜県不破郡」にある「南宮大社」に納められています。 これは、のちに「羽柴秀吉」につかえることになる「竹中半兵衛重治」が、南宮大社に奉納した代物。 愛用していたかどうかは不明ですが、道三の兜・鎧としては、これのみ現存しています。 「南宮大社」には、他にも古くからの名刀や鎧などが、数多く納められているとのこと。 毎年11月3日の「文化の日」に、一般公開されているので、道三の「鎧兜」も、この日に一般公開されているようです。 「」 槍術の名人だったという「斎藤道三」。 愛用の槍などが残っていれば、文化財になったのでしょうけれど、それらしいものは、未だに発見されていません。 「斎藤道三の愛刀や兜鎧」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。 道三の逸話・エピソード 斎藤道三が「蝮(マムシ)」と呼ばれた理由 斎藤道三は、主君である「土岐頼芸(とき よしのり)」を追放して、美濃国を奪い取った武将です。 「蝮(マムシ)は、親の腹を食い破って産まれ出る」 という迷信があります。 道三は、主君を「下剋上」によって追い落として、自らが美濃を支配した武将。 そのため「マムシの道三」と呼ばれるようになったのです。 しかし、道三はこの「マムシの呪い」から逃れることができませんでした。 我が子に腹を食い破られて、亡くなってしまう運命にあったのです。 「マムシの呪い」「マムシと呼ばれた理由」ついて、以下のリンク記事で、詳細に解説しております。 よろしければ、お役立てくださいませ。 道三の「名言」 道三は、「正徳寺」で織田信長と会見したあと、家来の「猪子兵介」に、信長をどういう人物だと思うかを尋ねました。 すると兵介は 「信長は、たわけ者でございます」 と応えたのです。 道三はこれを否定して、次のように言ったといわれています。 「我が子たちは、あのうつけ者(織田信長)の門前に、馬をつなぐことになるであろう」 この予言通り、道三の息子「斎藤利治」と「斎藤利堯」は、信長の家来として活躍し、重く用いられています。 「猪子兵介」は、一説によると、その後【 1556年】に、「斎藤道三」が「義龍」に殺害されると、信長のもとへ走り「美濃一国を譲る」と書かれた「国譲り状」を届けたとか。 主君の後を追って自害しようとしたところを、信長に説得されて臣従。 その後は信長の家来として活躍し、【 1582年】、『 』で、信長の息子「織田信忠」とともに、「二条城」で戦死しています。 道三の子「斎藤利治」もまた、「織田信忠」や「猪子兵介」とともに、二条城で戦死。 「斎藤利治」を攻めたのが、利治の義兄であり「斎藤道三」の娘婿であった、明智光秀の重臣「斎藤利三」でした。 「斎藤道三が残した名言」について、くわしく解説しております。 油売り(商人)であった「斎藤道三」が、美濃国主となれた理由 元々「油売り」の商人であった「斎藤道三」は、どうやって美濃国の国主になったのでしょう。 それは「下剋上」によってです。 道三は、主君であった「土岐家」を追い落とし、自分が美濃の支配者となったのです。 具体的には、「土岐家の家督争い」に介入し、スキを突いて、国を盗み取ったのでした。 美濃は「土岐頼芸」と、「土岐頼純」という、叔父と甥が、守護の座を争っていました。 道三は、この争いに介入し、二人を戦わせて、「土岐頼純」が病死。 残った「土岐頼芸」を追放。 「美濃国」を奪ったのです。 徳川家康も、「豊臣秀吉」の死後、豊臣家の内部で「 」と対立し、豊臣家の内紛を利用してその力を削ぎ落としました。 『斎藤道三』について「ひとこと」言いたい! 「斎藤道三」は、裏切りに裏切りを重ね、自らの主君であった「長井長弘」や「土岐一族」と敵対してきました。 道三が命を落とした「長良川の戦い」で、道三に味方する者は、ほとんどいなかったと言われています。 「呂布奉先(りょふ ほうせん)」 有名な歴史小説「 」に登場する最強の武将です。 この「呂布」という武将も、主君や仲間を何人も裏切り続けて、最期は味方に裏切られて亡くなった武将でした。 裏切り続ける者は、みずからも裏切られる運命にあるのかもしれません。 最期は「息子」に裏切られて亡くなった「斎藤道三」。 娘婿「織田信長」も、もっとも信頼した家来「明智光秀」に裏切られて殺害されましたが、「道三」と似たような最期をむかえたのは、なぜなのでしょうか。 斎藤道三の甥「明智光秀」・・・。 その光秀が、信長を殺害したというのも、なにやら数奇な運命を感じさせますね。 「明智光秀」や「本能寺の変」については、以下のリンク記事で、詳細に解説しております。

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斎藤道三の家紋の意味について

斎藤 道 三 家 系図

「信長の野望 Online」の「 斎藤家」に登場する武将達のプロフィールを紹介しています。 身分の表記がある場合は、プレイヤーがその身分になった際、その武将に配属される可能性がある事を示します。 配属された場合、その武将にちなんだ武将アイテムが貰えます。• 全ての武将がプレイヤーが配属される武将とは限りません。 中には「小荷駄隊」や、敵陣を落とした際にそこに現れる「後詰め」の武将もいます。• 武将のセリフは、その大名家に所属しているプレイヤーが話しかけた場合のものです。 他勢力の場合は違うセリフを話し、また武将によってはセリフが複数ある場合、身分や時間によって話すセリフが異なる場合もあります。• 部隊配属アイテム、ドロップアイテムは、 の記載と、「」 で有志の方々により集められたデータを参考にさせて頂きました。 (名前をクリックすると、武将の紹介に移動します) ・未所属 ・ 、 、 ・徒党員として登場する武将 =斎藤家 当主= 斎藤 道三 (さいとう どうさん) Lv70 大名 総大将 「わしは、男だ。 この戦国の世に生まれた以上、天下をめざさずして何の意味がある。 」 斎藤家の大名。 一介の油商人から一国一城の主に登り詰めた下克上の代名詞。 言葉巧みに主君に取り入り、謀略を駆使して敵を廃し、主君を追放してその地位を乗っ取ると、遂には国をも奪取した「美濃のマムシ」。 下克上に生きた男の生涯は、自らの子の下克上により幕を閉じた。 斉藤道三、および斎藤家についての詳細は をご覧下さい。 部隊アイテム 蝮の長槍 = 槍。 攻撃73、耐久80。 特殊:奪生命力・壱(90) =斎藤家 武将詰所 (小屋敷)= 塩屋 秋貞 (しおや あきさだ) Lv45 侍 敵先陣後詰 「国を治めるには、民への心配りも必要だ。 町で困っている者を見かけたら、必ず手を貸してやるのだぞ。 」 名前の通りの「塩屋」さん(塩商人)。 実際には斎藤家の武将ではない。 飛騨地方(美濃の北東の山岳地帯)の「塩」の流通を取り仕切っており、その塩取引によって多額の財産を築いていた。 飛騨地方の豪族(地方権力者)である 「三木家(後の姉小路家)」 の武将として、武田家と戦った事もある。 後に越後の 上杉家 と手を結び、豊富な資金を使って兵を雇い、道中に城を築きながら飛騨の山地を越えて「越中(現在の富山県)」に進攻したが、これも塩の通商ルートを確保するためだったと言われている。 商売のために兵を率いた、戦国時代にも珍しい 「商人武将」 と言えるだろう。 ドロップアイテム 飛騨国人の星兜 = 星兜。 防御19、耐久54、Lv14。 野々村 三十朗 (ののむら さんじゅうろう) Lv45 忍者 与力 先陣中翼 「・・・虫も殺さぬような顔をしておるな。 お主に、人が斬れるのか?」 「斎藤龍興(斎藤道三の孫)」の時代に、斎藤家の家臣としてその武勇が評判になっていた武将。 織田家との戦いで信長のいとこ「織田信益」を討ち取った。 斎藤家の滅亡後は織田家に仕え、織田家のエリート部隊 「黒母衣衆」 の一員となり、後に織田家の重臣「佐々成政」の配下として活躍。 織田家と武田家が戦った 「長篠の戦い」 では、鉄砲隊を率いている。 部隊アイテム 月下美人 = 面具。 防御13、耐久19。 ドロップアイテム 三十朗の忍者胴着 = 忍者着。 防御24、耐久39、Lv15。 力押しだけでは、この乱世生き残れぬ。 まずは信頼のできる仲間を見つけることだ。 さすれば共に競い合い、助け合い・・・自然、成長することができようぞ。 」 斉藤道三 の前に美濃を収めていた大名 「土岐家」 の家臣。 武将としての詳細はよく解らないが、斎藤道三 のクーデターによって焼失した城下町の復興に尽力し、その城と町を再建させたという。 妻木 広忠 (つまき ひろただ) Lv45 神主 与力 先陣右翼 「負けたくなければ、戦には出るな。 やる限りは絶対に勝て!」 美濃の元大名 「土岐家」 の一族であり、彼の娘は織田家の重臣「明智光秀」の妻となっている。 明智光秀 も土岐一族の親類であり、近い間柄だった。 土岐家 が追放され、美濃が斎藤家に支配されるとそれに従うが、斎藤家が織田家によって滅ぼされると織田家の家臣となり、明智光秀 の配下となる。 その後は明智光秀と共に各地を転戦し、光秀 が 織田信長 に反旗を翻した 「本能寺の変」 の際も 光秀 に追従、共に織田信長を討つが、「山崎の合戦(天王山の戦い)」で 明智光秀 が 羽柴(豊臣)秀吉 に敗れた際、彼もその戦いで戦死した。 部隊アイテム 桔梗蒔絵掛硯箱 = 特殊装備。 防御2、耐久22。 ドロップアイテム 妻木の青威鎧 = 大鎧。 侍・僧・神・鍛・薬。 防御34、耐久60、LV14。 遠藤 慶隆 (えんどう よしたか) Lv45 侍 与力 中陣左翼副将 「・・・ふふ。 元気があってよろしいな。 その後、武田家と密かに手を結び、織田家に反旗を翻そうとするが、武田信玄が病死したために未然に防がれている。 「本能寺の変」で 織田信長 が配下の 明智光秀 に討たれたあと、信長の跡継ぎ候補の一人である 「織田信孝」 を支持しているという噂が立ち、織田家の掌握を目指す 「羽柴秀吉」 に攻められて敗れ、降伏後に領地を減らされてしまった。 しかし後年、秀吉の死後に起こった 豊臣・西軍 と 徳川・東軍 の合戦 「関ヶ原の戦い」 で 徳川側 に付いたため、徳川・東軍が勝利した後、その領地を回復している。 なお彼の妹は、「内助の功」で有名な、あの 「山内一豊の妻」 である。 部隊アイテム 亀甲唐花紋袴 = 帯。 防御10、耐久22。 ドロップアイテム 慶隆星兜 = 星兜。 防御20、耐久55、Lv16。 =斎藤家 中庭= 堀田 道空 (ほった どうくう) Lv35 僧 「正徳寺で、初めて殿が信長殿と会見された際、殿は、「やがて自分の子らは皆、信長殿の門前に、馬をつなぐことになろう・・・」と、ため息をつかれた。 あのときは、にわかに信じられない気がしたが・・・ 最近の信長殿の評判を聞く限り、あながち、それも起こり得ぬ話ではないように思えてならん。 ・・・殿と義龍様の仲は、こじれるばかり。 孫四郎様、喜平次様も、殿の跡を継ぐには、まだ幼すぎる・・・。 殿は・・・お一人で戦っておられるのだよ。 」 斎藤家の家老。 斎藤道三 がまだ 土岐家 の家臣だった頃から彼に仕えており、道三 の国取りを助けたと言われている。 斎藤道三 と 織田信長 が美濃と尾張の国境沿いにあるお寺 「正徳時」 で会見した時に、両者の引き合わせ役となった。 その際、彼が 「こちらが山城殿(斎藤道三)にて候」 と 道三 を紹介した時、信長 が 「で、あるか。 」 と一言、無礼に答えたという話は有名だ。 斎藤家の滅亡後は織田家、次いで豊臣家に仕え、「関ヶ原の戦い」 でも西軍・豊臣側に味方し、関ヶ原 で豊臣家が敗戦した後もそのまま豊臣家に仕え続けた。 後に、豊臣家の大阪城が徳川家康に攻められた 「大阪・夏の陣」 で、自刃している。 麻生野 直盛 (あそや なおもり) Lv38 神主 「この乱世、本当に守り抜けるのだろうか。 この国を、民を・・・。 」 飛騨地方(美濃北方の山岳地帯)の豪族(地方権力者)、「江間家」 の家臣。 実際には 斎藤家 の家臣ではない。 戦国時代、飛騨には 「三木家(後の姉小路家)」 と 「江間家」 の2つの大きな勢力があり、互いに飛騨の支配を巡って争っていた。 麻生野直盛 はその 江間家 の当主の次男だったが、「麻生野」という場所にあった城を拠点としたため、その地名を取って「麻生野家」に改姓した。 武将としての目立った活躍は特になく、斎藤家が「斎藤龍興」(道三の孫)の時代に病死したようだ。 ドロップアイテム 麻生野腹当 = 腹当。 侍・僧・神・鍛・薬。 防御28、耐久70、Lv16。 石谷 対馬守 (いしがい つしまのかみ) Lv40 陰陽師 「殿がすぐれておるのは、なにも知略に限ったことではない。 曲舞、乱舞、茶の湯、作庭・・・ 殿は、ありとあらゆる面で、才を発揮されている。 かような時代に、殿のような主君に仕えられること・・・誇りに思うがいいぞ。 」 斉藤道三 の前に美濃を収めていた大名 「土岐家」 の家臣。 斉藤道三 が 土岐家 の家臣だった頃に芸術などを通じて親交があり、道三が土岐家を追放して美濃を掌握すると、そのまま斎藤道三に従った。 のち、斎藤道三 と、道三の息子「斎藤義龍」が争った際には 道三側 に付いて戦うが、戦力差は圧倒的であり、斎藤道三は戦死し彼の居城も包囲される。 彼の死を惜しんだ 斎藤義龍 は降伏の使者を送るが、彼はそれを断り、辞世の句を結んだ鏑矢を敵陣に放つと、自害した。 長井 衛安 (ながい もりやす) Lv41 僧 「訓練と実戦をともに経験してこそ、一人前になれるというものだ。 ゆっくり成長していけばよいのだからな。 」 「長井家」 は 美濃の元大名「土岐家」の重臣の家柄だったが、斎藤道三によって乗っ取られ、そのまま 斎藤家 の重臣の家柄となっている。 長井衛安 はその長井家の出身であり、「斎藤六人衆」 と呼ばれた重臣の一人であったのだが、斉藤義龍 が 斉藤道三 に反乱を起こした際には 義龍側 に加担している。 その後、美濃に侵攻して来た織田家と戦い、討ち死にした。 日根野 弘就 (ひねの ひろなり) Lv50 侍 奉行 中陣右翼大将 「武士にとって、地所は己の五体の肉と同じもの。 ・・・他国に地、奪われば、それはすなわち死を意味すると思え!」 斎藤道三 が土岐家の家臣だった頃から 道三 に仕え、そのまま 義龍、龍興 の斎藤家三代に仕えた重臣だが・・・ 普通ではない経歴の持ち主。 斎藤家の重臣 「斎藤六人衆」 の一人でもある。 道三 が反乱を起こし、主人の 「土岐頼芸」 を追放して美濃を乗っ取った際には、その 土岐頼芸 を攻めて国外に追いやった。 しかし 斎藤道三 が息子の 義龍 に反乱を起こされた際には、 義龍側 に付いて 道三 の息子達を殺害、道三 を絶望に追いやっている。 斎藤龍興 の代には 対織田家 の急先鋒となり、織田軍と戦い続けたが、本城の 「稲葉山城」 が陥落して 龍興 が逃亡すると、彼は 浅井家 に逃れた。 ところが浅井家で殺傷騒ぎのトラブルを起こしてしまい出奔、一時期 今川家にも仕えたと言うが、これも出奔する。 その後、豊臣秀吉 に仕えて各地の戦いで活躍するが、秀吉 を怒らせてまた出奔。 晩年は再び 秀吉 に仕え、後に高野山に出家したという。 彼は武具を色々と自作していたのだが、彼が作った 「日野根形」 と呼ばれた甲冑や兜はとても実戦向きで評判になり、各地に広まったという。 部隊アイテム 緑地丸洲浜上市 = 首装備。 防御13、耐久?。 ドロップアイテム 日根野具足 = 当世具足。 侍・鍛。 防御55、耐久92、Lv19。 明智 光安 (あけち みつやす) Lv65 神主 奉行 本陣軍師 「最近、お館様への忠義を忘れ、義龍様に味方する者が増えつつあるといいます。 だが、お館様は天の申し子・・・。 そのお館様に歯向かうなぞ、まったく、愚の骨頂だとなぜ気づかないのでしょうっ! ・・・とと、私としたことが。 つい、熱くなってしまいました。 忘れなさい。 」 「本能寺の変」 で 織田信長 を討った 明智光秀 の叔父であり、光秀 の育ての親でもある。 美濃の 「明智城」 の城主をしていたが、斎藤道三 が息子の 義龍 に反乱を起こされた際、道三 に味方した。 そのため、道三 の死後に 義龍 に攻められ、光秀 を逃がした後、篭城戦の末に自刃した。 部隊アイテム 飛山濃水図屏風 = 特殊装備。 防御4、耐久18。 ドロップアイテム 明智和製南蛮胴 = 南蛮具足。 侍・鍛。 防御64、耐久99、Lv21。 老将の大鎧 = 大鎧。 侍・僧・神・鍛・薬。 防御45、耐久69、Lv20。 =斎藤家 中庭= 内ヶ島 氏理 (うちがしま うじさと) Lv50 神主 敵中陣後詰 「人望が厚くなれば、自然、人は集まってくるものだ。 一人ではこの乱世・・・生きていけぬぞ。 」 名前の読みは、「うじまさ」 か 「うじとし」 かもしれない。 飛騨地方(美濃北方の山岳地帯)を支配していた大名 「姉小路家」 に仕えていたのだが、戦国時代の後期に越中方面へ出陣中、姉小路家は豊臣家の家臣 「金森長近」 に領地を攻められてしまう。 彼はすぐに帰還して軍備を整えようとしたのだが、すでに 姉小路家 は 金森長近 の軍勢によって滅ぼされた後であり、結局 彼は 金森長近 と和睦した。 しかし、そのすぐ後に・・・ 「天正大地震」 と呼ばれる大地震が彼の領地を襲う! この地震によって発生した土砂崩れによって、彼の居城と周囲の城下町は丸ごと生き埋めとなり、彼も含め、その全てが埋没した。 この埋没した城 「帰雲城」 には、軍勢を整えるための軍資金が眠っていると言われており、その価値は現在の金額に換算すると 5000億円 以上だと言う。 日本に残る 「埋蔵金伝説」 の1つである。 防御21、耐久17、Lv17。 佐藤 忠能 (さとう ただよし) Lv50 侍 敵中陣後詰 「今は一同団結の時。 身内での争いが、最大の敵であると思え。 」 美濃の国人であり、「加治田城」 の城主。 斎藤道三 の孫、斎藤龍興 の時代に、斎藤家の重臣 「長井道利」、「岸信周」 と共に 「反織田」 の盟約を結んで織田軍に対抗していたが、徐々に戦況は悪化し、織田家からの降伏勧告を受けて織田家に降った。 そのため怒った 岸信周 に、人質として出していた娘を城から良く見える場所で処刑されたという。 その後、織田軍の一員として 岸信周 の居城の攻撃に参加。 斎藤家滅亡後は、隠居して仏門に入ったという。 ドロップアイテム 青三日月星兜 = 星兜。 防御20、耐久45、Lv15。 加藤 光泰 (かとう みつやす) Lv45 侍 侍大将 先陣左翼 「・・・礼儀は熟知しておくべきものだが、虚礼はうっとうしいだけだ。 お前も武士なら、その腕で俺を納得させるがよい。 」 信On では斎藤家の家臣として登場するが、秀吉の家臣として有名な武将だ。 美濃の地侍(代々その地に住んでいる侍)の一人で、斎藤龍興に仕えていたが、斎藤家が滅亡してからは羽柴秀吉(豊臣秀吉)の配下となった。 その後、秀吉の側近として各地を転戦、後に美濃の 「大垣城」 という城の城主となるが、国の資金を横領したために領地を没収されてしまう。 のちに許されて甲斐の国の国主となるが、朝鮮出兵に参加した際に病にかかり、そのまま日本に帰る事なく病死した。 突然血を吐いて倒れたため、毒殺されたという説もある。 部隊アイテム 蛇眼三日月 = 立て物槍。 頭防具に付ける飾り。 ドロップアイテム 六十二間筋兜 = 筋兜。 侍・鍛。 防御25、耐久58、Lv18。 紅糸威仁王胴 = 大鎧。 侍・僧・神・鍛・薬。 防御41、耐久65、Lv18。 坂井 政尚 (さかい まさひさ) Lv50 侍 与力 中陣中翼大将 「・・・強さとは、己に勝って、初めて得られるもの。 威を以って他者を制し、周囲は一目置かずにはおられぬ、そうした境地を差すのだ。 ・・・武士たるもの、身も、心も鍛えねばならんぞ。 」 元美濃の国主 「土岐家」 の一族であり、最初は 斎藤家 の家臣だったが、斎藤家と織田家が同盟している頃に 織田信長 の要請を受け、織田家の家臣に転属した。 織田家の重臣 「佐々成政」 の兄であるとも言われている。 織田軍 と 浅井・朝倉連合軍 が戦った「姉川の合戦」で、織田軍は 13段 の陣を構えるのだが、その1段目、つまり一番先鋒の陣を任された。 だがその後の浅井・朝倉軍との戦いで、敵の城を陥落させるが、その戦いの中で奮戦の末に戦死した。 その時の戦いぶりは 「高名比類なし」 と称えられたと言う。 部隊アイテム イチイ十字槍 = 槍。 攻撃43、耐久60。 ドロップアイテム 一騎当千突撃具足 = 当世具足。 侍・鍛。 防御52、耐久89、Lv19。 遠山 友忠 (とおやま ともただ) Lv50 神主 目付 後陣左翼副将 「この乱世、本当に守り抜けるだろうか。 この国を、民を・・・。 」 「遠山家」 の一族は東美濃の一帯を支配していた家柄で、信On では 斎藤家 の家臣として登場するが、実際には独立勢力に近い存在であり、当初はどちらかというと 武田家 よりの立場にあった。 遠山友忠 はその 「遠山一族」 の一人で、斎藤家が滅亡した後は織田家からの交渉を受けて織田家寄りの勢力となり、西の信濃から侵攻してきた武田軍と戦った。 「本能寺の変」で 織田信長 が急死し 織田家 が混乱に陥った際、織田家の家臣「森長可」と対立し戦いとなるが、敗れて領地を失い徳川家に逃れる。 しかしその後、豊臣家の西軍 と 徳川家の東軍 が戦った 「関ヶ原の戦い」 の際、東軍の部隊として元の領地に侵攻してこれを制圧、旧領を取り戻すことに成功した。 以後、その地は再び遠山一族が収める事となる。 部隊アイテム 紫地鳳凰文金布 = 帯。 防御12、耐久24。 ドロップアイテム 関大鎧 = 大鎧。 侍・僧・神・鍛・薬。 防御41、耐久66、Lv18。 力押しだけでは、この乱世生き残れぬ。 まずは信頼のできる仲間を見つけることだ。 さすれば共に競い合い、助け合い・・・自然、成長することができようぞ。 」 織田信長 の祐筆(手紙を書く係)として有名な人物。 名前の読みは 「ゆうあん」 と 「せきあん」 の2通りの説がある。 美濃の出身で、最初は土岐家、斎藤家に仕えていたが、後に織田信長に仕えた。 外交官としても活躍し、武田家や毛利家との交渉にあたっている。 信長にたびたび苦言・諫言をしたと言われており、「一向宗の弾圧」 や 「比叡山の焼き討ち」 の際にもその非道を諌めたと言われている。 短気な 織田信長 も、なぜか 武井夕庵 の言葉は素直に聞いていたようだ。 織田家における礼儀作法の講師でもあったと言われている。 ドロップアイテム 祐筆夕庵の法衣 = 法衣。 僧・薬。 防御40、耐久43、Lv19。 竹中 重矩 (たけなか しげのり) Lv50 侍 侍大将 後陣右翼副将 「男として、武士として生まれた以上、より高みをめざすのは当然のことだ。 俺は・・・やるぜ。 絶対に、この世に名を残すような武人になってやる!」 稀代の軍師 「竹中半兵衛」 の弟。 竹中半兵衛 が斎藤家の本城 「稲葉山城」 を乗っ取った際には、兄に従いそれに協力した。 のちに兄と共に織田家に仕え、織田家が 浅井・朝倉連合軍 と戦った「姉川の合戦」では、浅井家の猛将 「遠藤直経」 を討ち取っている。 その後も 織田家 や 秀吉 に仕えていたと思われるが、以後の消息は不明だ。 部隊アイテム 九枚笹一文字 = 刀。 攻撃34、耐久48。 ドロップアイテム 竹中小肩衝 = 茶器(秀逸)。 価値9、防御3、耐久18。 飯沼 長継 (いいぬま ながつぐ) Lv50 侍 敵中陣後詰 「今は一同団結の時。 身内での争いが、最大の敵であると思え。 」 斎藤家における城主の一人だったが、斎藤龍興の代に織田家の攻撃によって斎藤家が傾き始めると、他の重臣達と共に織田家に寝返った。 以後は織田家の家臣として、浅井・朝倉家と戦った 「姉川の合戦」 などで活躍、美濃の 「大垣城」 の城主となっている。 「本能寺の変」 によって 織田信長 が急死すると 羽柴秀吉 に仕えたが、秀吉と対立した織田家の跡継ぎ候補の一人 「織田信孝」 への内通の疑惑を持たれたため、大垣城で暗殺された。 ドロップアイテム 黒金の顔当て = 頭装備。 全職業。 防御18、耐久42、Lv16。 大沢 正秀 (おおさわ まさひで) Lv45 鍛冶屋 侍大将 中陣右翼副将 「売られた喧嘩は、倍にして返してやれよ。 なめられたら終わりだぜ?」 斎藤家 と 織田家 の国境近くにあった城 「鵜沼城」 の城主であり、「鵜沼の虎」 の異名で呼ばれた猛将。 どちらかというと、「大沢次郎左衛門」 の名のほうが有名だ。 斎藤家に侵攻してくる織田軍をたびたび迎撃し、織田家が国境沿いの重要地 「墨俣」 に城を築こうとした時も、それを幾度も妨害している。 しかし、墨俣の城は織田家の家臣 「羽柴秀吉」 と 「蜂須賀正勝」 の活躍でわずかな期間で築城され(墨俣一夜城)、その後、秀吉に織田家に降るよう説得された。 この降伏は最初は許されなかったが、後に 信長 も認め、以後は 秀吉 の配下となった・・・ はずだが、その後の彼の詳細は不明である。 歴史的にはそれほど有名ではないが、豊臣秀吉の出世物語である 「太閤記」 においては、初期の秀吉の活躍を語る上で欠かせない人物である。 部隊アイテム 丸内花杏葉上布 = 首防具。 防御10、耐久16。 しかし 江間家 は 上杉家 と 武田家 の両国からの干渉を受け、家臣もどちらに味方するかで分裂する。 江間輝盛は上杉家に付こうとして、武田派であった江間家の当主である父を暗殺、さらに弟を追放して実権を握り、兵を率いて姉小路家と雌雄を決しようとするが、銃撃されて負傷し、そのまま戦場で討ち取られ、江間家 は滅亡した。 飛騨地方で勢力争いをしていた 「江間家」 とその家臣達は、実際には斎藤家とは直接関係はなく、もちろん斎藤家の家臣という訳でもない。 ただ、美濃の屋敷(廃城)には江間家のライバル 「姉小路家」 の一族がいるので、それで 信On では 江間家 が斎藤家よりになっているのかもしれない。 ドロップアイテム 飛騨軽浄衣 = 水干。 防御21、耐久17、Lv17。 斎藤 利三 (さいとう としみつ) Lv50 神主 侍大将 中陣左翼大将 「・・・人はそのときそのときに、己にできることを精一杯努めるだけ。 世間の評判など、気にすることはない。 何が正しいかなど、誰にも答えられるはずがないのだからな。 」 明智光秀の側近。 「本能寺の変」で 明智光秀 と共に 織田信長 を討ち果たした。 戦国時代を扱ったドラマや小説では、「本能寺の変」 を起こそうと苦悩する 光秀 の数少ない理解者という役どころが多い。 元は 斎藤家 の重臣 「稲葉一徹」 の家臣であったが、稲葉一徹が織田家に降った際に織田家の重臣である明智光秀の配下となった。 この時、稲葉一徹と明智光秀が彼を取り合ったというエピソードもある。 その後は 明智光秀 の腹心として各地を転戦、そして 光秀 と共に 「本能寺の変」 の計画を立てたとも言われている。 「本能寺の変」 と、明智光秀 が 羽柴秀吉 と戦った「山崎の合戦(天王山の戦い)」で明智軍の中核として奮戦するが明智軍は敗れ、光秀は落ち武者狩りにあい死去、彼も逃亡後に捕虜となり、処刑された。 なお、彼の娘は 徳川幕府の三代将軍 「徳川家光」 の乳母である「春日局」で、彼の妹は四国を支配した戦国大名 「長宗我部元親」 の妻となっている。 部隊アイテム 緑地丸州浜上布 = 首防具。 防御13、耐久19。 ドロップアイテム 忠義の直垂 = 直垂。 神・陰。 防御33、耐久30、Lv19。 斎藤 龍興 (さいとう たつおき) Lv53 陰陽師 「最近、父は口を開けば、いつもお館様の悪口ばかりだ。 息子の私でさえ、父上の尋常ならざる気迫に飲まれるばかり・・・。 ・・・父上は一体、何をお考えなのだろうか。 」 斎藤家の3代目当主であり、「美濃斎藤家」の最後の大名。 2代目である 「斎藤義龍」 の子であり、「斎藤道三」 の孫にあたる。 斎藤義龍 の病死によって斎藤家の後を継ぐが、その時若干 14 才だった。 当主としての器量や才能は全くなく、家臣を呆れさせるような行動や言動を繰り返したため、あっという間に人心は離れていった。 彼の行動や態度を諌めようと、家臣の 「竹中半兵衛」 は斎藤家の居城 「稲葉山城」 をわずか 17人 で乗っ取ってしまうが、そのためにますます彼の大名としての威厳は地に落ちる。 そのまま重臣達は次々と織田家に寝返っていき、「稲葉山城」 を織田家に急襲されるとあっさり城を捨てて逃亡、斎藤家はそのまま滅亡した。 ダメダメ丸出しな人な訳だが・・・ 父の急死によって、いきなり 14 才の子供で大名にされてしまったのだから、国主としての器量があるはずはなく、その意味では可愛そうだったとも言える。 その後、越前(現在の福井県)の大名 「朝倉家」 を頼ったが、朝倉家 も後に 織田家 によって滅ぼされ、その滅亡に殉じたと言う。 斎藤 義龍 (さいとう よしたつ) Lv55 侍 中老 後陣中翼大将 「……もはや、事実などどうでもよい。 我が父は、道三にあらず。 さきの美濃守護職、土岐頼芸なり! このまま斎藤家を父上……いや、道三の好きにはさせぬ!」 父である 「斎藤道三」 を討ち破り、下克上によって美濃の国を支配した斎藤家の2代目当主。 信On では普通の人に見えるが、実際には身長 6尺5寸(約2メートル)で、馬に乗っても地に足が着くという超大男だったという。 (信On でも新バージョンで大男になりました) 彼の母は 斎藤道三 が追放した元美濃の国主 「土岐頼芸」 の側室であり、道三 に嫁いでから7ヶ月で 斎藤義龍 が生まれたため、義龍は斎藤道三の実子ではなく、土岐頼芸 の子だと言う噂があった。 おまけに 斎藤義龍 が成長したらバカでかい大男 (道三は小柄な方だった)、しかも性格まで 道三 とは正反対で、おっとりしててのんびり屋。 そのため斎藤道三も本当の我が子と思わなかったためか、彼を跡継ぎにはしないと言い始め、義龍 と 道三 の親子の仲は悪化していった。 しかしある日、斎藤道三は隠居(引退)を宣言して、斎藤義龍に国主を譲る。 道三 が隠居したのは 土岐頼芸 の子であると言われている 義龍 に国を譲ることで、義龍 に接近していた土岐派の勢力を抑え、裏で 義龍 を操ろうとする狙いがあったと言われているが、正確には不明だ。 いずれにせよ国主となった 斎藤義龍 はこの一件でさらに自らの危機を感じたらしく、重臣や土岐派の勢力などを味方に付け、弟である別の斎藤道三の子を急襲し討ち滅ぼすと、道三に宣戦布告した。 すぐに 斎藤道三 も軍勢を集めるが、もはや多数の家臣・勢力が 斎藤義龍側 に付いており、後手に回った 道三 には少数の軍勢しか集まらず、2度の合戦の末、斎藤道三は戦死する。 父・道三 を討ち果たした 斎藤義龍 は美濃一国を掌握し、下克上により戦国大名となった。 その後、美濃には 織田信長 の軍勢が侵攻してくるが、これを何度も討ち破り、美濃の国を守っている。 その一方で 道三 の代から続く商業の奨励を続け、さらに国を富ませると共に、朝廷に働きかけて官位(役職)を拝領するなど政略的な手腕にも優れていた。 しかし 道三 との戦いからわずか3年後、流行り病にかかり、35才 であっけなくその生涯を終えてしまう。 そして斎藤家は子の斎藤龍興が継ぐのだが・・・ 後は、衰退の一途を辿る事となる。 部隊アイテム 蝮殺し = 懐剣。 攻撃31、耐久62。 特殊:呪殺・壱 ドロップアイテム 蝮殺し = 懐剣。 攻撃35、耐久65。 一介の油売りから、とうとう一国の主となったのだからな。 だが、切れ者すぎるがゆえに・・・他人の心の動きを軽んじておられるのかもしれぬな。 義龍様か、お館様か・・・。 戦いは、避けられぬな。 」 「長井家」 は美濃の元大名「土岐家」の重臣の家だったが、斉藤道三によって乗っ取られ、道三 の出世の踏み台となった家柄だ。 長井道利 はその 「長井家」 の家名を継いでいるが、その出生は今ひとつ不明で、道三の弟であると言われているが、義弟であるという説や、若い頃の道三の子であるという説もある。 とにかく斎藤道三に近い間柄だったことは間違いないようだが、道三が息子の斎藤義龍と対立を始めると 義龍側 に付き、義龍に 「謀反を起こすなら、まず道三の他の息子達を討つべきだ」 と進言する。 斎藤義龍 が 斎藤道三 の息子達(義龍にとっては弟)を討ち、父・道三に反旗を翻すと、義龍側 として参戦して共に 斎藤道三 を討ち果たした。 その後は 斎藤義龍 の家臣となるが、謀反の際の発言や行動などで危険視されたのか、義龍にはあまり重用されなかったという。 しかし 斎藤義龍 死後、斎藤龍興 の代になるとトップクラスの重臣となり、織田家の攻撃を防ぐために奔走する。 だが斎藤家の家臣は次々と織田家に寝返っていき、滅亡への動きを止めることは出来なかった。 斎藤家の滅亡後 「お家再興」 を果たすために画策するが失敗、その後は京都へ向かい 「三好家」 に仕え、後に織田信長と敵対し始めた 「将軍・足利義昭」 の配下となるが、摂津(大阪)の合戦で戦死した。 彼もまた、「美濃のマムシ」 の血筋の生涯だったと言えるかもしれない・・・ 部隊アイテム 長井隊大薙刀 = 薙刀。 攻撃57、耐久?。 ドロップアイテム 道利の法衣 = 法衣。 僧・薬。 防御41、耐久43、Lv19。 岸 信周 (きし のぶちか) Lv45 僧 目付 中陣中翼副将 「嫌な風だな。 何事もなければよいのだが・・・。 」 斎藤家の終末期の忠臣。 斎藤龍興 の代に、斎藤家の重臣 「長井道利」 「佐藤忠能」 と共に 「反織田」 の盟約を結び、美濃に侵攻してくる織田軍と戦った。 しかし盟約を結んだ1人の 佐藤忠能 が織田家に寝返ったために戦況は悪化、彼の元にも降伏勧告の使者が来たのだが、「盟約を結んだ以上は討ち死にする覚悟、生きて栄える気はない」 と言いこれを拒絶、少数の手勢と共に篭城する。 結果、城は織田軍の集中攻撃を受け、奮戦の末、彼は炎上する城と共に果てたという。 部隊アイテム 美濃雷鳥羽頭巾 = 頭巾。 防御15、耐久15。 ドロップアイテム 生臭袈裟衣 = 法衣。 僧・薬。 防御39、耐久42、Lv19。 長谷川 重成 (はせがわ しげなり) Lv50 陰陽師 敵後陣後詰 「修行に終わりはない。 常に向上心を持つことが肝心だぞ。 」 斎藤家の三代目、斎藤龍興 の家臣。 斎藤家の滅亡後は織田家に仕え、各地を転戦した。 「本能寺の変」 で 織田信長 が急死すると 豊臣秀吉 に仕え、九州への出兵などに参加、秀吉が朝鮮に出兵した際には 尾張・名古屋城 の城代となっている。 その後、「関ヶ原の戦い」 の際に東軍の 徳川側 に属し、以後は徳川家の家臣となった。 竹中 半兵衛 (たけなか はんべえ) Lv55 陰陽師 目付 後陣右翼大将 「将とは、智・信・仁・勇・厳の五つの資質を備えている者のことだ。 力に溺れ、智を軽んじるものは、戦においては犬死にするだけよ……。 」 豊臣秀吉 の軍師として有名な、日本屈指の軍師の一人。 その経歴から、中国の天才軍師 「諸葛亮 孔明」 と並び称されることも多い。 始めは 斎藤家 の家臣だったが、主君の 斎藤龍興 は彼のことを人前で平気でバカにする事が多く、さらに彼の叔父である重臣 「安藤守就」 を些細な事で処罰したりしていた。 そこで彼はそんな主君を諌めようと、 龍興 の居城 「稲葉山城」 の乗っ取りを計画する。 そして弟の 竹中重矩 が 稲葉山城 で病と称して寝込み、それを見舞いするという名目で武具を含めた見舞い品を 16人 の従者に持たせて城に入り、そのまま武装蜂起して城を占拠! わずか 17 人で 稲葉山城 を乗っ取って、斎藤龍興 を追い出してしまった。 その後、叔父の安藤守就の援助を受けつつ城を占拠し続け、織田信長から 「美濃を半分やるから城を譲ってくれ」 と再三の要求を受けるが、「他人や栄達のためにやった訳じゃない」 と言い、斎藤龍興 に城を返還。 その後は近江の山奥に引っ込んでしまった。 その後、稲葉山城 の話を聞いた各地の大名から仕官の誘いを受けるが、病弱であることを理由に断り続ける。 しかし 羽柴秀吉 の「三顧の礼」を受けて秀吉の配下となり、以後は軍師として活躍。 織田家が近畿地方の制圧する際の秀吉の手柄には、半兵衛の活躍も大きかったと言われている。 しかし、生来の病弱な体質は改善されず、だんだんと寝込むことが多くなり、秀吉が中国地方への進軍を命じられた後、それに従軍中 36才 の若さで陣中で病没した。 その時 秀吉は、「お先まっくら」 と言って泣き崩れたという。 ちなみに、秀吉には 「黒田官兵衛」 と 「竹中半兵衛」 という二人の軍師がいたが、官兵衛 が謀略や政略に優れている一方、半兵衛 は軍略や兵法に優れていたと言われている。 徒党員武将 部隊アイテム 黒漆九枚笹軍配 = 特殊装備。 防御2、耐久26。 侍・僧・鍛。 防御52、耐久90、Lv21。 虎御前 = 刀。 侍・忍・鍛。 攻撃53、耐久60、Lv22。 竹腰 尚光 (たけこし ひさみつ) Lv50 神主 敵後陣後詰 「よい目をしておるな。 お主はきっと・・・強くなるぞ。 」 斎藤家の重臣 「斎藤六人衆」 の一人。 また、斎藤家の運営の中枢にあった重要な重臣達を 「西美濃四人衆」 と言うのだが、彼を含めて 「西美濃五人衆」 と称する事もある。 つまり、それだけ彼は斎藤家の中心的な家臣だったと言える。 彼の父は斎藤道三と、その息子 斎藤義龍が戦った 「長良川の合戦」 で戦死したため、義龍の代になってから彼がその後を継ぎ、重臣となった。 しかし 斎藤義龍 は3年後に病死、斎藤龍興 の代になると、家臣は次々と織田家に寝返っていく。 そんな中、彼は最後まで斎藤家に忠誠を尽くし、斎藤龍興 が国外へ逃亡して斎藤家が滅亡した後は、農村に身を隠してひっそりと余生を過ごしたという。 ドロップアイテム 尚光の五色帯 = 帯。 僧・神・陰・忍・薬。 防御16、耐久39、Lv?。 遠山 景任 (とおやま かげとう) Lv55 鍛冶屋 目付 後陣左翼大将 「殿のため、国のため・・・ それがしに、いったい何ができるであろうか。 」 「遠山家」 とその一族は東美濃の一帯を勢力下としていた家柄で、実際には斎藤家の家臣という訳ではなく、独立勢力に近い存在であった。 遠山景任 はその遠山一族の一人であり、東美濃の 「岩村城」 という城の城主であったのだが、この城がある場所は 美濃・尾張・信濃・三河 の国境沿いの交通の要所であり、戦略上の重要拠点であったため、戦国時代には否応にも各勢力から攻撃や干渉を受ける立場にあった。 「遠山一族」は当初、武田家と親交があったのだが、彼の代に織田家が斎藤家を滅ぼして美濃を制圧すると、織田家からの交渉を受けるようになる。 特に重要拠点 「岩村城」 の城主である 遠山景任 には、絶世の美女と評判だった 織田信長 の叔母が嫁ぎ、織田家の味方になるよう勧誘されている。 これらの外交によって、遠山一族はその後、織田家側の勢力となった。 しかしその後、信濃を支配した武田家が 「秋山信友」 を大将として 岩村城 に進軍してくる。 遠山景任 はすぐに織田家に救援を求め、派遣された 明智光秀 と共に武田軍を撃退するのだが、この戦いで 遠山景任 は負傷、それが元で病気になり、再度進軍してきた 秋山信友 軍との篭城戦の最中にそのまま病没してしまった。 その後、岩村城 は元 織田信長の叔母 である 遠山景任 の妻が 「女城主」 として指揮を取り、さらに数ヶ月に渡って篭城戦を続けるのだが、いつまでたっても援軍は来ず、城兵の疲労も重なり、秋山信友からの 「私と結婚して開城して欲しい」 との要求を受け、武田家 に降伏した。 ちなみに・・・ 信On で彼の部隊に配属されると、「桜吹雪」 という名の鉄砲が手に入るが、桜吹雪でおなじみの 「遠山の金さん」 こと 北町奉行 「遠山景元」 は、この美濃の遠山一族の子孫である。 まあ、遠山景任の直系という訳ではないのだが・・・ こういうのもアリだろう。 字も似てるし。 部隊アイテム 桜吹雪 = 鉄砲。 攻撃72、耐久38。 ドロップアイテム 織田叔母御の愛 = 特殊装備。 全職業。 防御5、耐久29、Lv20。 日比野 清実 (ひびの きよざね) Lv50 陰陽師 「人を動かすのは、損得ではなく心・・・。 力に溺れず、まずは心を磨くことだ。 」 斎藤家の重臣 「斎藤六人衆」 の一人。 斎藤龍興 の代に織田家が美濃に侵攻してきた際、「長井道利」 と共に迎撃に向かったが、逆に大敗し、彼も討ち取られてしまった。 これにより織田家は美濃侵攻の拠点として 「墨俣」 の地を制圧する。 後にここに、秀吉が 「墨俣一夜城」 を作る事となる。 ドロップアイテム 日々野紋付き直垂 = 直衣。 神・陰。 防御38、耐久40、Lv21。 斎藤 長龍 (さいとう ながたつ) Lv50 薬師 奉行 後陣中翼副将 「絶対的な信頼、忠誠などというものが、本当にあるのだろうか。 ・・・お主は、どう思う?」 斎藤道三の末っ子。 斎藤義龍にとっては弟。 斎藤道三の子は、斎藤義龍の反乱の際に討ち取られているのだが、彼は無事だったので、おそらくその時にはまだ元服(成人)していなかったのだと思われる。 斎藤家 を 斎藤義龍 が継いでからか、それとも斎藤家が滅亡してからかは解らないが、織田家の家臣となっており、信長の長男 「織田信忠」 の配下として越中で上杉家との戦いで活躍している。 その後 「本能寺の変」 で、信忠 と共に戦死したという。 部隊アイテム 長龍隊お仕置き棒 = 棍棒。 攻撃69、耐久81。 稲葉 一鉄 (いなば いってつ) Lv60 僧 中老 本陣四天王 「たった一滴の水であっても……長く打ち続ければ、どんな大岩をも切り崩す。 人も、同じだ。 他に何を言われようとも、迷うことなく己の信じる道を行くがよい。 」 「美濃三人衆」 の一人。 元の名は 稲葉良道。 最初は美濃の元国主 「土岐家」 に従っていたが、土岐家が 斎藤道三 に追放されると 道三 に従い、斎藤家の重臣となった。 以後、斎藤家の中枢として 政治・軍事 の両面で活躍、斎藤義龍 が反乱を起こした際には義龍側に付いている。 しかし 斎藤家 が 斎藤龍興 の代になると進言も聞き入れられなくなり、あまり重用されず、他の 美濃三人衆 と共に織田家に寝返った。 織田家に所属した後は、「安藤守就」 「氏家卜全」 と共に 「美濃三人衆」 として美濃衆を率いて活躍、織田家の主要な合戦にはほぼ参加しており、各地の戦いで大きな勲功を上げた。 「本能寺の変」 で 織田信長 が急死した後は 豊臣秀吉 に仕え、秀吉と 徳川家康 が戦った 「小牧・長久手の戦い」 にも参加、その後、美濃の国主となっている。 美濃三人衆 の中で最も活躍した武将で、文才も優れており、「文武兼備の将」として 信長 にも高く評価されていたと言う。 ちなみに、彼はかなり頑固な性格だったらしく、「頑固一徹」 という言葉は彼が語源となっている。 徒党員武将 部隊アイテム 頑固はちまき = 鉢巻き。 防御21、耐久24。 ドロップアイテム 美濃四人衆の冠 = 冠。 全職業。 防御21、耐久40、Lv23。 稲葉家最上胴 = 胴丸。 侍・僧・鍛。 防御51、耐久90、Lv21。 稲葉江 = 刀。 侍・忍・鍛。 攻撃55、耐久50、Lv?。 氏家 卜全 (うじいえ ぼくぜん) Lv60 侍 中老 本陣四天王 「戦とは、死にたくないという気を起こした者こそ、かえって討たれるというのが道理・・・。 ・・・死を覚悟せずして、何の武功が立てられよう!」 「美濃三人衆」 の一人。 最初は美濃の元国主 「土岐家」 の配下で、土岐家が 斎藤道三 に追放された後は斎藤家の重臣となり、その中枢を担っていたが、斎藤龍興 の代に他の重臣達と共に織田家に寝返った。 織田家では、「稲葉一鉄」 「安藤守就」 と共に 美濃三人衆 として活躍、浅井・朝倉連合軍 と 織田軍 が戦った 「姉川の合戦」 でも大きな活躍を見せている。 しかしその後、伊勢地方の一向宗門徒 「長島一向一揆」 との戦いで、織田家の重臣 「柴田勝家」 の配下として戦うが 織田軍 は敗北、しんがり役を務め、その中で戦死した。 徒党員武将 部隊アイテム 立波蓮華槍 = 槍。 攻撃67、耐久76。 ドロップアイテム 美濃四人衆の冠 = 冠。 全職業。 防御21、耐久40、Lv23。 氏家南蛮胴 = 南蛮具足。 僧・鍛。 防御65、耐久100、Lv21。 不破 光治 (ふわ みつはる) Lv60 神主 中老 本陣四天王 「・・・お館様と義龍様の仲は、お主も聞いている通りよ。 当家の分裂は・・・もはや、避けられぬのかもしれぬな。 」 美濃の重臣といえば 「美濃三人衆」 が有名だが、それに 不破光治 を加え 「西美濃四人衆」 と称する場合もある。 つまり彼は、美濃三人衆 に並ぶ斎藤家の中心人物の一人だった。 歴史小説などでは 「不破 市之丞」 の名で登場することもある。 斎藤家の滅亡後は 織田家 に仕えるが、美濃三人衆 とは別に活動していたようで、「将軍・足利義昭」 が織田家を頼った際にはその出迎えに向かっており、礼儀作法などに長けていたと思われる。 その後、浅井・朝倉家 との戦いや、「越前(近畿地方の北方)」 の 「一向一揆」 の鎮圧戦などで活躍、越前が織田家の重臣 「柴田勝家」 の支配になるとその配下となり、同じ勝家配下の 「前田利家」 「佐々成政」 と合わせ 「府中三人衆」 と呼ばれるようになる。 「本能寺の変」 で 織田信長 が急死した後はそのまま 柴田勝家 に従うが、勝家 は 秀吉 と戦った 「賤ヶ岳の戦い」 に破れて自刃。 以後は 羽柴秀吉 の配下となった。 部隊アイテム 不破式三巴冠 = 冠。 防御17、耐久20。 ドロップアイテム 美濃四人衆の冠 = 冠。 全職業。 防御21、耐久40、Lv23。 安藤 守就 (あんどう もりなり) Lv60 陰陽師 中老 本陣四天王 「半兵衛は、わしの、自慢の娘婿よ! 戦場にあっては武勇あり、しかも泰然自若の構えを失わず……。 頼もしきかな。 あれこそ、真の武士の姿よ!」 「美濃三人衆」 の一人。 他の 美濃三人衆 と同じく、始めは 土岐家・斎藤家 の重臣だったが、斎藤龍興 の代に織田家に寝返った。 その後、織田家で 美濃衆 を率いて他の 美濃三人衆 と共に、浅井・朝倉家との戦いや、伊勢地方の 「長島一向一揆」 との戦いに従軍する。 しかしその後、武田家との内通疑惑を持たれてしまい、織田家から追放処分となってしまった。 それから数年後、「本能寺の変」 によって 織田信長 は急死、織田家は大混乱に陥る。 その際、彼はその混乱に乗じて旧領を取り戻すべく美濃で挙兵するが、同じ美濃に領地を持つ 「稲葉一鉄」 と衝突してしまい、美濃三人衆同士 の戦いとなって、これに敗れ戦死した。 部隊アイテム 立波陣羽織 = 特殊装備。 防御7、耐久28。 ドロップアイテム 美濃四人衆の冠 = 冠。 全職業。 防御21、耐久40、Lv23。 =美濃のその他の人々= 深芳野 「……義龍は私に似て、少ぅしばかり大柄で、不器用に生まれてしまっただけ。 義龍は……殿の子です!」 「みよしの」 と読む。 美濃の元国主 「土岐頼芸」 の側室で、斎藤道三 の妻。 斎藤義龍 の母。 土岐頼芸 に気に入られていた 斎藤道三 が、頼芸 から与えられて側室としたのだが、道三 に嫁いでからわずか7ヶ月後に 道三 の長男 「斎藤義龍」 を生んだ。 そのため、斎藤義龍 は生まれた時から 「道三の子ではなく 土岐頼芸 の子なのではないか」 と言われ続ける事になる。 実際に 義龍 が誰の子であったのか、それは誰にも解らない。 しかし、彼はその行動で、自分がマムシの子である事を証明して見せたと言える。 小見の方 「娘 「帰蝶」 の名は……殿がおつけになったもの。 どこへ行こうとも、やがて殿の元へと帰ってきてほしいと、そう願いを込められているのです。 そんな帰蝶を信長殿の元へ嫁がせる際は……きっと、殿はわらわ以上におつらい思いをされたに相違ない。 だからもう……わらわは、悲しむのをやめたのじゃ。 帰蝶は、国で一番の幸せな姫となるために、信長殿の元へ参ったのだと……そう思うことにしたのじゃ。 」 美濃の「明智家」の姫で、斎藤道三 の妻(正室)。 明智光秀 の姉でもある。 斎藤道三 は最初に 「深芳野」 と婚姻したのだが、深芳野 は主君 「土岐頼芸」 の側室でもあったため、彼女を正妻とはしなかった。 そのため、後から結婚した 「小見の方」 が、斎藤道三 の 「正室」 という形になっている。 小見の方は 「美濃一の美女」 と呼ばれており、織田信長 に嫁いだ 斎藤道三 の娘 「帰蝶(お濃)」 の母となった。 つまり、帰蝶 と 明智光秀 は いとこ の関係にある。 しかし、小見の方は 38 才の若さで病死してしまった。 斎藤 孫四郎 「孫四郎は、父上も兄上も大好きです。 孫四郎もお二人のように、将来は強くてかっこいい男になりとうございます。 …………(えへんっ)!」 斎藤道三 の次男。 つまり、斎藤義龍 にとっては弟。 義龍 が 道三 に対して謀反を起こした際、長井道利 の進言で 義龍 の兵に急襲され、日根野弘就 によって殺害された。 信On では、「かっこいい男になりとうございます。 (えへんっ)!」とか言って、むじゃき丸出しなのだが・・・ やはり、斎藤義龍 に討たれる運命にあるのだろうか? 姉小路 良綱 Lv45 神主 飛騨(美濃の北方の山岳地帯)の戦国大名 「姉小路家」 の元・当主。 姉小路頼綱 の父。 元は 「三木家」 という名前の飛騨の豪族(地方権力者)だったのだが、他の豪族達を討ち滅ぼして勢力を拡大し、飛騨の国司(その国を治める役職)だった 姉小路家 が断絶したのを機に、その家柄を名乗って飛騨を収める大義名分を得た。 その後、「上杉家」 と同盟し、信濃に進出してきた 「武田家」 や、その 武田家 の後ろ盾を得ていた 飛騨 の豪族 「江間家」 と戦っていたが、武田軍の 「木曾義昌」 の進攻軍に敗れて降伏。 以後、武田家 に従属した状態で、当主の座を息子の 「姉小路頼綱」 に譲った。 ドロップアイテム 姉小路の直垂 = 胴装備。 神・陰。 防御24、耐久18、Lv19。 姉小路 頼綱 Lv44 神主 飛騨(美濃の北方の山岳地帯)の戦国大名 「姉小路家」 の当主。 「自綱」 とも言う。 彼が当主となった時、姉小路家 は 武田家 に従属していたが、斎藤道三 と婚姻関係を結び、織田家が美濃に進出してくると 織田家 と親交を深めるなどして、武田家に対抗する準備を進めた。 その後、武田信玄、上杉謙信、織田信長 などの有力大名が相次いで病死・戦死したのを機会にその混乱に乗じて勢力を拡大、飛騨の覇権を巡って争っていたライバル 「江間家」 を討ち滅ぼすと、一気に飛騨一国を制圧する。 しかし・・・ 権力を得て疑心暗鬼になったのか、その後は自分の弟や子を、謀反の容疑で次々と謀殺、自ら 姉小路家 の権力基盤を弱めてしまう。 その後、織田家の後継者を巡って 「羽柴秀吉」 と 「柴田勝家」 が争うと 柴田勝家 に味方するが、柴田勝家 は 秀吉 に破れ、さらにその後、勝家 の配下で 対秀吉 の急先鋒だった 「佐々成政」 に協力するが、そのために秀吉配下の 「金森 長近」 から攻撃を受けてしまう。 頼綱 はこれに対抗すべく軍勢を出陣させるが、金森長近 の陽動作戦に引っかかり、軍勢を向けた方向とは別の場所から居城を急襲され降伏、飛騨から追放され、姉小路家 は滅亡した。 本家の 「信長の野望シリーズ」 では、初代からずっと登場し続けているおなじみの戦国大名だ。 が・・・ 場所が場所なので、速攻で滅ぼされてしまう、弱小大名の定番でもある・・・ ドロップアイテム 姉小路の直垂 = 胴装備。 神・陰。 防御24、耐久18、Lv19。 土岐 頼芸 Lv44 陰陽師 画像は「蒼天録」より 「土岐家」 は 斎藤道三 の前に美濃を治めていた、戦国時代初期の大名だ。 彼は元々は土岐家の次男であり、そのため国主ではなく、美濃は土岐家の長男 「土岐政頼」 が支配していた。 しかし家臣となった 斎藤道三 が彼に 兄・政頼 を追放して国主になる事を進言、これを受けて 道三 と共に謀反を起こし、土岐政頼 を追放して美濃の国主となる。 だが数年後、今度は自らが 斎藤道三 の謀反によって、美濃から追放されることとなる。 これにより、土岐家は滅亡となった。 しかし、彼はその後も尾張の「織田家」や越前の「朝倉家」に支援を要請、お家再興を狙って 「美濃三人衆」 等と共に、たびたび美濃に侵攻した。 そのため 斎藤道三 は、一旦は 土岐頼芸 と和睦する。 だが、土岐家と姻戚関係にあった伊賀の 「六角家」 が斎藤家に侵攻して敗れた際、それを理由に再び追放され、国主としての地位も完全に 道三 に奪われてしまう。 その後は各地を流浪し、再び権力を持つことはなかった。 晩年、豊臣秀吉の時代に、美濃の国主となっていた 「稲葉一鉄」 に誘われて美濃に帰郷、その年の冬に病死したという。 ドロップアイテム 土岐の鷹 = 絵画。 全職業。 防御3、耐久19、Lv19。 土岐 頼次 Lv43 侍 画像は「蒼天録」より 美濃の元国主 「土岐頼芸」 の次男。 長男は 頼芸 と仲が悪かったため、彼が 土岐家 の跡継ぎとなるはずだったのだが、斎藤道三 によって 父・頼芸 と共に美濃から追放されてしまった。 その後、父と共に 美濃奪回 と お家再興 を狙って戦っていたが、父が完全に失脚すると、大和(近畿地方中部)の謀将 「松永久秀」 に仕える。 松永久秀 が 信長 に謀反を起こして討たれた後は 織田家 に仕え、後に豊臣家の家臣となり、秀吉の 「馬廻り衆(近衛兵)」となって河内(大阪)に領地を得た。 秀吉の死後、豊臣・西軍 と 徳川・東軍 が戦った「関ヶ原の戦い」では徳川側に付き、その功績で 「土岐家」 は領地を認められ、以後も存続し続けることとなる。 なかなか波乱の人生だが、最終的には勝利者だったと言えるだろう。 ドロップアイテム 獅子王の剣 = 剣。 侍・鍛・神。 攻撃42、耐久51、Lv18。 土岐 頼元 Lv42 侍 画像は「蒼天録」より 美濃の元国主 「土岐頼芸」 の四男。 土岐頼芸 が追放された後も美濃に残り、斎藤家の援助を受けて生活していたという。 斎藤家の滅亡後は武田家に仕えるが、武田家の滅亡後は 兄・頼次 と共に豊臣家に仕え、最終的には徳川家の家臣となっている。 ドロップアイテム 土岐氏黒染大鎧 = 鎧。 侍・僧・鍛・神・薬。 防御40、耐久64、Lv17。 特に六人目と七人目は弱体化した時に最初にいなくなるので、会う機会は少なくなります。 稲葉 貞道 (いなば さだみち) Lv55 侍 稲葉一鉄 徒党員、二人目 稲葉一鉄 の長男。 父と共に 織田信長 に仕え、各地を転戦した。 「本能寺の変」 で 織田信長 が急死すると 豊臣秀吉 に仕え、父が隠居した後に 稲葉家 を継ぐ。 その後、美濃に領地を持っていた 「遠藤慶隆」 が敵に内通している疑いで追放されたため、彼にその領地が与えられた。 そして後年、豊臣秀吉 が死去すると、世の中は 西軍・豊臣側 と 東軍・徳川側 に二分されて 「関ヶ原の戦い」 へと向かっていく。 ここで彼は西軍に付く事を宣言したのだが、東軍に付いた 遠藤慶隆 が領地を奪還すべく攻め込んで来て激戦となった。 この戦いで 稲葉貞道 の城は激しく攻め立てられ、彼は降伏するのだが、一矢報いなければ気がすまなかったのか、降伏後に 遠藤慶隆 軍に襲いかかってこれを蹴散らしている。 降伏後に攻めたのだから後で怒られそうだが、彼は頭を剃って詫びを入れ、その後に東軍に参加して許された。 しかし美濃の領地は 遠藤慶隆 に与えられ、彼は豊後(北九州)に移転となっている。 稲葉 重道 (いなば しげみち) Lv55 神主 稲葉一鉄 徒党員、五人目 稲葉一鉄 の子。 稲葉一鉄 と共に各地を転戦し、後に 豊臣秀吉 の馬廻衆(近衛兵)となる。 関ヶ原の戦いが始まる前に死去した。 彼は 「稲葉正成」 という養子を貰っていて、この人の妻が後に 徳川幕府・三代将軍 の乳母である 「春日局(かすがのつぼね)」 となり大きな権威を持つに至った。 そのため 「春日局の義父」 という形で知られている人だ。 稲葉 直政 (いなば なおまさ) Lv55 鍛冶屋 稲葉一鉄 徒党員、六人目 詳細不明だが、稲葉一鉄 の子で、稲葉貞道 の弟らしい。 稲葉一鉄 や 稲葉貞道 の配下として活動していたようだが、後に会津に配流(流罪)になったという。 氏家 行広 (うじいえ ゆきひろ) Lv55 忍者 氏家卜全 徒党員、二人目 氏家卜全 の次男。 父と兄の後を継ぎ、美濃の 「大垣城」 という城の城主となる。 彼には武将としての才覚があったようで、合戦の度に出世を繰り返し、最後には 豊臣秀吉 から伊勢の領地を与えられ、大名にまでなっている。 秀吉 の死後、「関ヶ原の戦い」 の際に豊臣家の 「石田三成」 が 「徳川家康討伐」 を訴えて挙兵すると、彼はその時に徳川軍にいたのだが、中立を宣言して伊勢の城に戻った。 しかし 石田三成・西軍 からの圧力を受けて中立を維持できなくなり、西軍に参加して 東軍・徳川側 の部隊と戦う。 「関ヶ原の戦い」 で西軍が敗北したのを知ると開城して降伏、「荻野道喜」 という名前に改名して諸国を流浪した。 それから十数年後、徳川家 が 豊臣家 の大阪城を攻める際に、徳川家康 から 10万石 の領地を与えるという破格の条件で味方になるよう説得されるが、これを辞退して 大阪城 に入り、徳川軍と対峙する。 「大阪の陣」 ではアドバイザー的な役割を果たしたが、大阪城落城の際に自刃した。 なお、大阪の陣で豊臣家の実権を握っていた 「淀君」 の自害の介錯をしたとも言われている。 氏家 直昌 (うじいえ なおまさ) Lv55 神主 氏家卜全 徒党員、五人目 画像は「革新」より 氏家卜全 の長男。 織田家 が 「伊勢・長島一向一揆」 との最初の合戦に敗れ、その際に父の 氏家卜全 が戦死した後、家督を継いだ。 その後、織田家 の武将として活動していたが、1583年(本能寺の変 で 織田信長 が死んだ翌年)に病死してしまった。 そして 氏家家 は、氏家行広 が継ぐ事となる。 氏家 直行 (うじいえ なおゆき) Lv55 薬師 氏家卜全 徒党員、七人目 (詳細不明・・・ 氏家卜全の本名は 「氏家直元」 なので、氏家卜全 の親族にあたりそうですが、氏家家に 「直行」 という人はいなかったようです・・・?) 竹中 重門 (たけなか しげかど) Lv50 薬師 竹中半兵衛 徒党員、四人目 豊臣秀吉の軍師 「竹中半兵衛」 の子。 秀吉 に仕え、豊臣秀吉 と 徳川家康 が戦った 「小牧・長久手の戦い」 などに参加した。 朝鮮出兵 では出発地点となった北九州を守る。 秀吉 の死後に起こった 「関ヶ原の戦い」 では、最初は 西軍 を支持したが、徳川軍 の重臣 「井伊直政」 の説得を受けて 東軍 に鞍替えする。 そして関ヶ原の戦いが終わった後、逃亡を続けていた 西軍 の主要人物の1人 「小西行長」 を捕らえる手柄を立て、父から受け継いだ美濃の領地を保障された。 また、彼は茶道や華道、文学を学んだ教養人でもあり、晩年に豊臣秀吉の伝記である 「豊鑑」 という書物を記している。

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