明智 光秀 家 系図。 明智光秀

明智光秀の子孫が今上天皇というのは本当か!? 光秀の家系図を検証

明智 光秀 家 系図

麒麟がくる 2019. 10 2020. 03 monster. cat611 明智光秀の子孫が今上天皇というのは本当か!? 光秀の家系図を検証 2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公、明智光秀の血が令和の今上天皇に続いているという話。 妻についても、側室は持たなかったという愛妻家として聞こえていた光秀ですが、現在は側室の子の子孫だと名乗る人が沢山います。 家系図改ざんの多くは、子孫を自称する人物がいなかった子を書き加え、その子孫に成りすますというのが普通です。 有名人でありながら逃げ隠れをする必要があった明智光秀の家系図は、改ざんするにはうってつけだったはず。 では天皇家との血筋は検証できなかったのでしょうか。 はい!できました。 それでは明智光秀から今上天皇までの家系図を紹介します。 明智光秀の子孫が今上天皇かを検証 結論からいうと、明智光秀と今上天皇は繋がっています。 しかしそれは光秀の娘で、細川ガラシャとして名高い珠ありきの話です。 細川家からしたら、「明智ではなく細川の血だ!」と言いたいのではないでしょうか。 では光秀の血を今上天皇に繋げてみましょう。 光秀の娘、珠は細川忠興に嫁ぎ5人の子をも受けます。 ここから二つの流れが派生し、どちらも今上天皇につながるのです。 ガラシャの娘 多羅の流れ ガラシャの娘多羅は、光秀の重臣であり春日野局の父、稲葉一鉄に嫁ぎます。 その子である恒通が娘を公家の勧修寺家に嫁がせました。 子の経逸が敬明の養子となり3人の子を授かり、長女が光格天皇に嫁ぎ次の天皇である仁孝天皇を生みます。 この仁孝天皇が、光秀の血縁であるもう一つの血流と出会います。 仁孝天皇は孝明天皇の父であり、孝明天皇から明治天皇、大正天皇、昭和天皇、平成天皇と続き令和の今上天皇に繋がります。 ガラシャの息子忠隆の流れ 細川家、ガラシャの長男忠隆は前田利家の娘千代を娶りました。 その子、徳が西園寺実晴と結婚。 生まれた娘が久我通名と結婚し、二人の子を授かります。 余談ですが、娘貞子が伊達藩5代藩主伊達吉村に嫁ぎ、その子村子が第3代岡山藩主池田継政に嫁いだ先の子孫が、第79代内閣 総理大臣だった細川護熙氏です。 ここで明智光秀の妻、熙子の熙が復活したのは偶然に過ぎないはずです。 紆余曲折で細川に戻った経緯は置いておいて、先を続けます。 久我の子に廣幡豊忠という人物がいて、久我の息子なのに廣幡って・・・という所ですが、詳細は不明です。 その娘が正親町実連と結ばれ、娘の雅子を授かります。 そしてここで光秀のもう一つの血流と出会い、雅子は仁考天皇と結婚し、孝明天皇の母となり明治天皇へと続くのです。 江戸時代の婚儀の通例 昭和の前半は、結婚は家と家が行うものという認識が強かったように思います。 家の格式が合う者同士の結婚が普通で、そうでない結婚が認められたのは昭和の後半だったのではないでしょうか。 江戸時代はその傾向が更に強く、しかも家の格式の変動が少ない時代でした。 必然的に家格と等しい家柄同士での通婚が当たり前という時代でした。 細川家は江戸時代を熊本藩主として生き残り、その婚家は仙台の伊達家、岡山の池田家、臼杵藩稲葉家、公家の西園寺家、勧修寺家、久我家、正親町家などの狭い範疇にあったといえます。 それゆえに残った明智の血ですが、残るべきして残ったのか・・残ったと言えるのかどうかは不明です。 明智光秀の子 光秀の子は何人だったのか・・・・側室はいたのか・・・ 当時の宣教師だったルイス・フロイトが書いた「日本史」には、光秀の子は2人とあります。 子の意味は、あくまでも男児という意味です。 これは津田宗久が書き残した「天王寺屋会議」にも父子3人とあるため、子供は2人と推定できます。 一方女児は、珠以外に2人いたことが分かっています。 織田信澄の正室と荒木村次の正室です。 計6人の子供が確認できますが、側室の子は存在が不明です。 今上天皇に続く明智光秀の血は、細川家に珠(ガラシャ)が嫁いだからこその結果でした。

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明智光秀の子孫を家系図から解説

明智 光秀 家 系図

明智光綱 あけち-みつつな の兄弟には、 がおり、斎藤道三の正室になっています。 この明智光綱の別名が明智光国、明智光隆ともされますが、1535年に討死したともされます。 この時、明智光秀はまだ子供だったと言われており、隠居していた祖父・ の命にて、 あけち-みつやす が明智城に入って後見したともされます。 その明智光安 は、斎藤道三の子・ と対立し、1556年に明智城が陥落し討死しました。 このとき、明智光安の子とされる は、明智光秀と共に城から脱出したと言われていますが、不明瞭な点が多いです。 お牧の方 は、通説では明智光秀の母親であり、若狭・武田氏の娘、 の娘とも伝わります。 明智光秀が老母を人質として敵に出と言う話が江戸時代の軍記などで記載されていますが、事実だったかどうかは不明と言ったところです。 なお、お牧の方は、母親ではなく、明智光秀の最初の正室であるとする説もあります。 千草 明智光綱の弟である山岸光信(進士光信)の娘・千草がいます。 明智光秀は、この千草に庶子を産ませたとする説があります。 なお、千草とは結婚しておらず、側室にもしていませんので、未婚のまま子を産んだと言う説もあります。 ただし、1546年、明智光秀 明智十兵衛光秀 が18歳のときに、千草 山岸光信の娘、16歳 と結婚して最初の妻にしましたが、のち死別したとする場合もあります。 子の山岸光重は、母方の山岸家の養子となり、のち明智家の家臣に加わり、明智光重と称したともされます。 もちろん、諸説ある話ですので、どれが間違えで、どれが正しいとも言えません。 妻木煕子 つまき-ひろこ と、明智煕子 あけち-ひろこ とも言いますが、美濃・妻木城主とされる妻木範煕 妻木勘解由左衛門範煕 の娘と考えられます。 一説によると1530年頃に生まれており、 の娘とする説もあります。 有名な話としては、妻木煕子が明智光秀に嫁ぐ直前「疱瘡」 ほうそう=天然痘 にかかり、左の頬 ほほ に、ぶつぶつの跡が残ってしまったと言います。 そのため、妻木煕子は、嫁ぐのを辞退したとも、父が別の娘をと申し出たともされます。 一説では、煕子に姿が似ていた妹・芳子 よしこ を代わりに嫁がせようとしたとも・・。 しかし、明智光秀は、煕子が芳子に知らない間に変わっていたのを見抜いたとも、そんな容姿の事は気にしなかったともされます。 容姿は年を取ったり病気をすれば変わるが、不変なのは心の美しさであるとして、いずれにせよ妻木煕子と結婚しました。 1556年に、明智城が斎藤義龍によって攻められた際には、身籠っていた明智煕子を背負って、明智光秀は越前の のもとまで逃れたとされます。 越前で 主の に仕えたとも客将になったともされますが、明智の屋敷は少し離れた西側にあります。 要するに、優遇されていたとは言えず、生活は苦しかったと言います。 ある日、朝倉家にて連歌会の催しを明智光秀が行う事になり、酒宴の出費に苦労している明智光秀を見て、明智煕子は、自分の黒髪を売ってお金を用意したと伝わります。 当時の女性にとって、長い髪の毛は、身分の高い女性としての証でもあり「髪は女の命」ともされましたが、そのようなプライドにこだわらず、夫を支えた良妻でした。 そのため、二人の夫婦仲はとても良かったと言われています。 1563年には、3女 4娘 ・ のちの が越前にて生まれました。 1571年、 のあと、明智光秀は宇佐山城主となり、近江・ が築城されると、明智煕子も転居したことでしょう。 1575年、明智光秀は、惟任の姓と日向守の官位を から賜わります。 しかし、 との の戦いで、おもいっきり大敗した際に、明智光秀はそれまでの疲れが出て発病します。 このとき、明智光秀は京の医師・曲直瀬道三正盛 まなせどうさんまさもり の屋敷にて療養しました。 死の境を彷徨ったとも言われていますが、明智煕子の献身的な看病にて救われたとされます。 その疲れのせいか、明智煕子は病気になったようで、明智光秀が平癒祈祷を にお願いしています。 また、吉田兼見が明智煕子の病気のお見舞いで、 の宿所も訪問した記録が残っています。 しかし、1576年11月7日に、明智煕子は死去しました。 享年46 享年36、享年42 ともされます。 戒名は福月真祐大姉。 墓所は、 からほど近い明智家の菩提寺「 」にあります。 それら妻木煕子に関して詳しくは下記でも解説させて頂いております。 本当に申し訳ないのですが、色々な説があります。 伏屋姫は、服部鳥羽守の長女で、美人のほまれ高く16歳で明智光秀に嫁ぎました。 服部鳥羽守は、鳥羽城主・服部保益と考えられます。 しかし、伏屋姫は疱瘡にかかって亡くなったため、妻木煕子が後妻 継室 として入ったする場合もあります。 別の話では、伏屋姫が嫁ぐ直前に疱瘡にかかり、服部鳥羽守は次女を代わりに嫁がせようとしたが、明智光秀は疱瘡にかかって容姿が醜くなった伏屋姫と結婚したともあります。 この疱瘡の話は、明智光秀の正室とされる上記の妻木煕子 明智煕子 の話でも同じく出てきますので、話が伝承されるうちに、混同したようですので、今となっては、どっちが最初の話なのか、確認は困難です。 また、伏屋姫は明智煕子が亡くなったあとに迎えた後妻 継室 だとする説もあり、1582年1月に坂本城にて内治麻呂を出生したともあります。 そして、 のあと、 が伊賀越えをした際には、服部鳥羽守が命を狙ったとも言います。 色々な話がありすぎて、もはや解明は不明といったところです。 ただ、継室にする場合には、そのとき、すでに明智光秀は織田家の中でも相当の地位ですので、伏屋姫を迎えたとした場合には、妻木煕子の前と考えるのが妥当なような気がいたします。 側室・喜多村保光の娘 明智光秀は側室を持たなかったとするのが一般的ですが、逆に側室は2人いたとする説もあります。 その一人が、喜多村保光の娘ですが、この女性は、上記でご紹介した伏屋姫であるともされます。 喜多村保光の娘は、1582年に明智光秀の3男を産んだともされます。 その子が、上記でもご紹介した内治麻呂です。 この幼子は坂本城から脱出して、母の実家である喜多村家に逃れたともあります。 そして、成長すると喜多村保之と称しました。 1635年に妙心寺の住職・玄琳が「明智系図」を喜多村保之に送り、その系図が現代に伝わると言う事になります。 この喜多村家は、服部一族とする説もありますので、そのように考えますと、伏屋姫の服部家=喜多村家と言う可能性もあります。 側室・原仙仁の娘 原仙仁の娘ですが、肥後・細川家 の嫁ぎ先 にゆかりある安国寺の「土岐系図」に掲載されています。 父・原仙仁は公家とされますが、そもそも、公家に原氏は存在していませんので、違った名前があった可能性もあり、どのような人物なのか全く不明です。 また、原仙仁の6男は浅野内蔵助、すなわち で有名な大石良雄 の祖父というので、信憑性の問題はありそうです。 なお、原仙仁の娘は1女を儲けたようで、その娘は、川勝丹波守の妻になっています。 この川勝丹波守ですが、室町幕府の奉公衆で、織田家に従っていた川勝秀氏の子・川勝広綱の可能性があります。 ただし、川勝広綱の正室は織田家の末流にあたる藤掛永勝の娘ですのです。 よって、川勝丹波守の妻になった明智光秀の娘に関しても資料不足でよくわかりません。 この原仙仁の娘の姉が、美濃・佐藤一族の恩田氏に嫁いでおり、その子が「 」として明智光秀の与力を務めていますが、 の変にて討死しました。 御ツマキ 御ツマキ おつまき は、この女性も諸説ありますが、下記の通りです。 明智光秀の実の妹 妻木煕子の妹 いずれにせよ、織田信長の近くにいるようになった女性 女中?側室? です。 1577年11月には、惟任妹御ツマ木が、明智光秀と共に東大寺と織田家の調停を行いました。 1580年5月、上洛した織田信長に、山科言経が進物を献上した際、その近所女房衆の「ツマキ」らにも帯を献上したとあります。 ここで女房衆と記載されていることから、ご婦人、すなわち側室であった可能性が指摘されています。 また、1580年9月、吉田兼見の日記「兼見卿記」には、在京していた「惟任姉妻木」に酒と食物を持参したとあります。 この「姉」と言うのは恐らくは、妹の勘違い・誤記と考えられますが「妻木」と明記されていることから、御ツマキは「 」、すなわち妻木煕子の妹である可能性があります。 この御ツマキを通じて、明智光秀は、織田信長の言動を入手したり、時には織田信長を説得するようなことも、依頼していたとも考えられます。 しかし、1581年8月、奈良・興福寺の多聞院日記に「去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也」とあります。 惟任ノ妹ノ御ツマキ死了は、御ツマキが亡くなったことを示しています。 その翌年、本能寺の変となりました。 御ツマキの死が、織田信長と明智光秀の関係に影響を与えた可能性も無きにしも非ずです。 なお、明智光秀自身は、土岐明智氏ではなく土岐妻木氏が出自で、明智氏の家督を継ぐことになったとする説もあります。 そのように考えますと、御ツマキは、明智光秀の実の妹とも考えられるのです。 明智光秀の子供 明智軍記 3男4女 長女:明智光春の妻 の正室から、明智秀満の正室 次女: の妻 三女: の妻(細川ガラシャ) 四女: の妻 長男:明智光慶 次男:明智光泰 明智十次郎 三男:明智乙寿丸 鈴木叢書 そうしょ の中にある明智系図 側室の子も含めると6男7女 長女 養女 :菅沼定盈の妻 三宅長閑の娘) 次女 養女 :桜井家次の妻 三宅長閑の娘) 三女: の妻 四女:細川忠興の妻(細川ガラシャ) 五女: の妻 六女:川勝丹波守の妻 長男:玄琳 妙心寺の僧侶 次男:安古丸 で討死 三男:不立 天龍寺の僧侶 七女:井戸三十郎の妻 四男:十内 坂本城落城のときに自刃 五男:自然 坂本城落城のときに自刃 六男:喜多村保之 江戸町年寄 不明:定頼 上記の2つの史料にて一致する子供は下記の通りです。 織田信澄の妻 細川忠興の妻 織田信澄の妻 明智光秀の娘 の名前は不詳ですが、嫁いだのは間違いありません。 なお、細川忠興の妻は皆様もよくご存じの細川ガラシャ 明智玉 と言う事になります。 細川ガラシャに関しては下記にて詳しく記載させて頂いております。 明智光慶 明智光慶(あけち みつよし)は明智十五郎 明智十兵衛 とも言い、妻木煕子が産んだ長男とされます。 が築城された頃から、史書に名前が見られますが、初陣した形跡はないため、年齢は低かったものと推測されます。 本能寺の変の直前に、愛宕山で開催された威徳院連歌で結句を詠んでいますので、13歳前後であったとは考えられます。 この明智光慶もたくさんの説があります。 本能寺の変のときには、丹波・ にいたとも、坂本城にいたともされます。 明智光秀が に味方するように書いた手紙には「近畿を平定した後は十五郎に天下を譲り、自分は隠居する」と記されてもいます。 明智光秀が襲われて命を落とすと、明智光慶は自刃したとも、坂本城から脱出したあと自害したとも、生き延びて妙心寺 京都市右京区花園 の住職・玄琳になったとも色々な話があります。 千葉県市原市不入斗 いりやまず には「明智光秀側室の墓」と伝わる墓石があります。 この側室と言うのは「ふさの方」と言う名前で、明智十五郎と共に、不入斗まで逃れて生涯を送ったとも推測されています。 齋藤利満・ の親子が同行したともあり、墓には土岐重五郎と言う名が刻まれているそうです。 なお、成人した明智十五郎は、つね子と言う女性を妻に迎えたようです。 桔梗の家紋とともに、側室・重五郎・つね子 ツ子 の3名の名がひとつの墓石に刻まれているそうです。 千葉と言えば、万喜城主・土岐為頼 万喜頼春 がいますので、同じ土岐氏と言う事で、頼ったのかと思いました。 しかし、南北朝で戦功があった土岐頼貞の子・土岐頼重 明智頼重 のときの所領のひとつに武蔵国荏原郡大井郷不入斗村があります。 そのため、明智一族の親戚が不入斗 いりやまず にいたと考えるのが自然でしょうか? 明智自然 明智光慶と共に存在が確実視されている明智自然 あけち-じねん は、2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場しました。 明智軍記では明智光秀の次男・明智十次郎光泰の幼名が自然だと記されているようです。 鈴木叢書や明智系図では、坂本城落城の際に自刃したとあります。 また、別の説では、明智光泰 あけち-みつやす は、一時は、大和・ 主である の養子・筒井定頼 自然丸 になったともあります。 ただし、その説の場合には、筒井定次が織田信長の娘を正室に迎えて、本家の跡目となったため、明智自然は明智家に戻っていたようです。

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明智氏家系図

明智 光秀 家 系図

麒麟がくる 2019. 10 2020. 03 monster. cat611 明智光秀の子孫が今上天皇というのは本当か!? 光秀の家系図を検証 2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公、明智光秀の血が令和の今上天皇に続いているという話。 妻についても、側室は持たなかったという愛妻家として聞こえていた光秀ですが、現在は側室の子の子孫だと名乗る人が沢山います。 家系図改ざんの多くは、子孫を自称する人物がいなかった子を書き加え、その子孫に成りすますというのが普通です。 有名人でありながら逃げ隠れをする必要があった明智光秀の家系図は、改ざんするにはうってつけだったはず。 では天皇家との血筋は検証できなかったのでしょうか。 はい!できました。 それでは明智光秀から今上天皇までの家系図を紹介します。 明智光秀の子孫が今上天皇かを検証 結論からいうと、明智光秀と今上天皇は繋がっています。 しかしそれは光秀の娘で、細川ガラシャとして名高い珠ありきの話です。 細川家からしたら、「明智ではなく細川の血だ!」と言いたいのではないでしょうか。 では光秀の血を今上天皇に繋げてみましょう。 光秀の娘、珠は細川忠興に嫁ぎ5人の子をも受けます。 ここから二つの流れが派生し、どちらも今上天皇につながるのです。 ガラシャの娘 多羅の流れ ガラシャの娘多羅は、光秀の重臣であり春日野局の父、稲葉一鉄に嫁ぎます。 その子である恒通が娘を公家の勧修寺家に嫁がせました。 子の経逸が敬明の養子となり3人の子を授かり、長女が光格天皇に嫁ぎ次の天皇である仁孝天皇を生みます。 この仁孝天皇が、光秀の血縁であるもう一つの血流と出会います。 仁孝天皇は孝明天皇の父であり、孝明天皇から明治天皇、大正天皇、昭和天皇、平成天皇と続き令和の今上天皇に繋がります。 ガラシャの息子忠隆の流れ 細川家、ガラシャの長男忠隆は前田利家の娘千代を娶りました。 その子、徳が西園寺実晴と結婚。 生まれた娘が久我通名と結婚し、二人の子を授かります。 余談ですが、娘貞子が伊達藩5代藩主伊達吉村に嫁ぎ、その子村子が第3代岡山藩主池田継政に嫁いだ先の子孫が、第79代内閣 総理大臣だった細川護熙氏です。 ここで明智光秀の妻、熙子の熙が復活したのは偶然に過ぎないはずです。 紆余曲折で細川に戻った経緯は置いておいて、先を続けます。 久我の子に廣幡豊忠という人物がいて、久我の息子なのに廣幡って・・・という所ですが、詳細は不明です。 その娘が正親町実連と結ばれ、娘の雅子を授かります。 そしてここで光秀のもう一つの血流と出会い、雅子は仁考天皇と結婚し、孝明天皇の母となり明治天皇へと続くのです。 江戸時代の婚儀の通例 昭和の前半は、結婚は家と家が行うものという認識が強かったように思います。 家の格式が合う者同士の結婚が普通で、そうでない結婚が認められたのは昭和の後半だったのではないでしょうか。 江戸時代はその傾向が更に強く、しかも家の格式の変動が少ない時代でした。 必然的に家格と等しい家柄同士での通婚が当たり前という時代でした。 細川家は江戸時代を熊本藩主として生き残り、その婚家は仙台の伊達家、岡山の池田家、臼杵藩稲葉家、公家の西園寺家、勧修寺家、久我家、正親町家などの狭い範疇にあったといえます。 それゆえに残った明智の血ですが、残るべきして残ったのか・・残ったと言えるのかどうかは不明です。 明智光秀の子 光秀の子は何人だったのか・・・・側室はいたのか・・・ 当時の宣教師だったルイス・フロイトが書いた「日本史」には、光秀の子は2人とあります。 子の意味は、あくまでも男児という意味です。 これは津田宗久が書き残した「天王寺屋会議」にも父子3人とあるため、子供は2人と推定できます。 一方女児は、珠以外に2人いたことが分かっています。 織田信澄の正室と荒木村次の正室です。 計6人の子供が確認できますが、側室の子は存在が不明です。 今上天皇に続く明智光秀の血は、細川家に珠(ガラシャ)が嫁いだからこその結果でした。

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