目白 が 丘 教会。 東京目白の目白ヶ丘教会(昭和モダン建築探訪) : 関根要太郎研究室@はこだて

日本バプテストキリスト教目白ヶ丘教会

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9月の初め、から池袋の明日館まで、閑静な住宅街を歩いてみた。 を北口で降りての学生で賑う商店街を北西に進み、右折してを越えを渡ると目の前に斜面が迫ってくる。 道端にザクロがたわわに実っていた。 山手線の土手を貫くトンネルが見えたところで左折。 いい坂があった。 左右に曲りながら上る。 傾斜も結構ある。 坂上から。 坂名があるのかはわからなかった。 坂の途中、家の間からモダンな建物が顔をのぞかせた。 台地の端に建つ日立目白クラブ。 昭和28年からの福利厚生施設だが、にの寄宿舎としてが建設した鉄筋コン造2階、地下1階の建物で、昭和寮と呼ばれていたそう。 この場所には大正末期までは近衛邸があった。 同時に建てられた別館も隣にあり教会として使われている。 本館の正面は、縦長のアーチ窓が階段状に左端の煙突塔に連なっていく。 スパニッシュ調の個性的な街並みを形成する7棟の住築群は、東京都により歴史的建造物に選定されている。 閑静な住宅街の突き当たり、台地の南端にあるが、大正末期まではあたり一帯が近衛邸の敷地だった。 日立目白クラブから北への道沿いには、日本目白ヶ丘教会。 水煙のような塔のデザインが面白い。 昭和25年の築、設計はの弟子である遠藤新であったことをあとから知った。 これまでに2ヶ所訪ねている。 そこから北側に続く道には、まん中に立ち木があった。 ここはグーグルマップに「旧近衛邸大欅」と載る。 近衛邸の車寄せだった場所で、の父である篤麿が明治33年に一帯を購入後、40歳で急逝し借財返済のために分譲されて欅は伐採されることになったが、近隣住民の保存運動で残ったとのこと。 大欅の先に見る日立目白クラブ。 マップ上、そこから100mほど西に近衛篤麿旧居跡という記しが出たので寄ってみた。 普通の住宅の間にのような囲いが。 その奥に大きな碑があった。 裏にの建立とあった。 石に刻まれた解説もあった。 近衛篤麿公記念碑 公の諱は篤麿、霞山と号した。 大職冠の後裔で、筆頭の第28代当主。 3年(1863)6月26日京都に生まる。 (1884)、に列し公爵。 翌年ドイツに留学、(1890)帰国し、議員。 (1895)院長、翌年議長に就任。 時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。 前後における西欧列強の清国侵略に憤慨し、中国のと日中の輯協(協力)を提唱。 (1898)を組織し、次いで上海に東亜同文書院、東京に東京同文書院を設立、日中両生の教育に尽瘁した。 ロシアの中国への南下を憂慮し、会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。 しかし不幸にして難病に罹り、日露開戦直前の(1904)1月1日逝去。 行年僅か42歳。 当地は、公が明治35(1902)に晩年の居を定めた所であり、終焉の地となった。 現在この辺は下落合と呼ばれるが、別称近衛町ともいう。 この記念碑は公没後20余年の(1924)7月に建立された。 平成8年(1996)1月 財団法人 会長近衛通隆 碑の後ろに、むくりのある屋根の木造家屋と煉瓦塀があった。 日立クラブからの道に戻って なつかしい雰囲気の駐在所があった。 東京古典楽器センターという気になる場所も。 つづく。 massneko.

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2020年 目白ヶ丘教会へ行く前に!見どころをチェック

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Profile 関 直子 Naoko Seki 東京育ち、東京在住。 武蔵野美術大学卒業後、女性誌編集者を経てその後編集長を務める。 現在は気になる建築やアート、展覧会などがあると国内外を問わず出かけることにしている。 内藤廣の『建築のはじまりに向かって』を読み終わり、ついに文筆家・佐伯誠さんから教えられたレベッカ・ソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』という、分厚い本にとりかかる。 長時間椅子に座って本を読んでいると、こんな文章に突き当たった。 「ある春の日、歩くことについて書こうとしていて、やはり机は大きなスケールの物事を考える場所ではないと思い直してわたしは立ち上がった。 」 そして、ソルニットはサンフランシスコのベイエリアを6マイル(約10 km弱)ほど回遊しながら歩きはじめ、歩きながら考える。 「机の前に座っているより、歩いている方が面白い考えが浮かんでくる」と、以前POSTALCOのマイク・エーブルソンさんが文筆家の佐伯誠さんとのトークショーで語っていたことを思い出した。 その時にsedentary death syndrome(座りすぎが死につながる症候群)のことも話題に出て、「ヘミングウエイは立って書いていたね」と、佐伯さん。 スタンディング・デスクのことへと話題は移った。 こんなスタンディング・デスクだったとは。 立って書いたり読んだりもいいが、取りとめもなく歩くのも良さそうだ。 新しいお店ができると聞いて、行先は目白にした。 目白あたりは名建築が点在しているので、私なりの寄り道をして。 子どもの頃に通っていた「自由学園幼児生活団」という幼稚園は「自由学園明日館」の向かいにあって、目白駅から線路沿いの小道を歩いて通園していた。 羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園の校舎としてフランク・ロイド・ライトの設計により建設された。 (1921年) 写真提供:自由学園明日館 敷地の南側に建つ講堂。 遠藤新の設計(1927年) 写真提供:自由学園明日館 「自由学園明日館」は、言わずと知れたフランク・ロイド・ライトの設計。 1999年から2年をかけて保存修理工事されたが、窓枠の色が見慣れた焦げ茶色から淡い緑に変わっていて驚いた。 これは建設当時の色に戻したということだそうだ。 講堂はライトの弟子の遠藤新による設計。 明日館も講堂も子どもの頃からなじみ深い建物だ。 目白には遠藤新の手になる教会「目白ヶ丘教会」 1950年)もあって、優雅な尖塔が遠くからでも目に入る。 その道の先には「日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮)」が見えてくる。 これも「明日館」と同じく、昭和初期の建築。 目白通りに戻ると、いくつかの洋菓子店がある。 「エーグル・ドゥース」は良く知られているが、ちょっと見過ごしてしまうほどこじんまりとした「カオリヒロネ」もいい。 その店の先の角を曲がって一本裏の道に入ると「吉村順三記念ギャラリー」に出る。 ここでは奇数月の最初の土日の午後に「小さな建築展」が開催されていて、吉村作品の設計図や模型、建築事務所のOB所員の方たちからさまざまな話を聞くことができる。 この通りには、骨董店や子どもの本の店など小さな店もいろいろある。 再び目白通りに戻って、護国寺方面に歩き出す。 学習院の緑を右に見てしばらく行くと、歯科医院のあるビルがある。 そこをビルに沿って左に曲がり、ビル裏の階段を降りたところに「TALION GALLERY(タリオン・ギャラリー)」という名のアートのギャラリーが出現する。 ここは、何度行っても必ず迷う場所。 小金沢健人やHIMAAこと平山昌尚など、海外の評価も高い現代アート作家の展示が時々開催される。 千登世橋から、明治通りに降りて池袋方面へしばらく歩くと見えてくる緑色のビル。 そのビルの階段を上がって2階に行くと「うぐいすと穀雨」というパン屋がある。 カフェも併設しているので、窓際に座り明治通りの並木の緑を眺めながらトーストを食べるのもいい。 日本女子大学 成瀬記念講堂(1906年)。 清水組の設計・施工により建てられた。 関東大震災で、外壁の煉瓦壁が損傷したたため現在のような木造外壁に改修された。 写真提供:日本女子大学 目白通りに引き返して雑司ヶ谷エリアに。 ここからしばらくは日本女子大学のテリトリーで、「成瀬記念講堂」は1906年(明治39年)の竣工。 以前ここで、日本女子大学住居学科で教鞭をとっていた伊東豊雄のレクチャーがあり、教え子の妹島和世、貝島桃代の卒業制作の話を聞いたことがある。 日本女子大学図書館の外観。 写真提供:日本女子大学 道を挟んで建つ真新しいガラス貼りの建築は日本女子大学の図書館で、昨年4月に開館したそうだ。 住居学科の卒業生である、妹島和世の設計。 街に向かって開かれているし、内部も個々のプライバシーは保ちつつ他の人の存在も感じられる距離感のある空間。 そのような場のあり方を妹島は「それぞれに自分の時間を過ごしているけれど、柔らかく、みんなとここにいるな、ということを無意識に感じられるわけです」と語っている。 数年前、SANAAが手掛けたフランス・ローザンヌにある「ロレックス・ラーニング・センター」に行ったが、そこにも孤立せず距離を保ち、ウネウネとした床に寝そべったり座ったり思い思いの姿勢で勉強する学生たちがいた。 そこを過ぎると「目白台運動公園」。 田中角栄の目白御殿跡だ。 この公園の巨木の存在感はどうだろう。 田中角栄よりもっと遡り、江戸時代の地図では小笠原信濃守の下屋敷跡だったことを知ると納得できる。 続く、男子学生寮「和敬塾」「永青文庫」「肥後細川庭園」は、肥後熊本細川越中守下屋敷跡にできたものだ。 和敬塾本館 旧細川侯爵邸)大森茂、臼井弥枝 設計(1936年) 写真提供:和敬塾 和敬塾本館一階のエントランス。 写真提供:和敬塾 「和敬塾」の前には横断歩道があり、そこを渡るとオープンしたばかりの店「塔屋」の前に出る。 古いもの、新しいもの、日本のもの、外国のもの、衣服も浮世絵も生活の道具も、吉田直嗣のシェイプの際立つ白と黒のうつわと均衡を保って並んでいる。 店主の和田基樹さんに、「何故目白に?」と聞いたら「田中角栄が好きで……。 」との答え。 江戸時代の音羽あたりの古地図を見せられて、なるほどと思った。 あ、店名の由来を聞くのを忘れた。 店を出てしばらく行くと「東京カテドラル聖マリア大聖堂」の60mを超える尖塔が見えてきた。 答えはこれかも知れない。 東京カテドラル聖マリア大聖堂 丹下健三設計(1964年)上空から俯瞰すると頂部は十字架のかたちになっている。 写真提供:東京カテドラル聖マリア大聖堂 写真提供:東京カテドラル聖マリア大聖堂 「建築は、それを成立させる共同体に時間意識を紡ぎ出す装置なのだ」(内藤廣『建築のはじまりに向かって』) 目白を歩きながら、この言葉が妙に腑に落ちた。

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東京目白の目白ヶ丘教会(昭和モダン建築探訪) : 関根要太郎研究室@はこだて

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また、関根氏の作品の他にも、同氏の設計作品が多く残る函館の歴史的建造物や、同時代のモダン建築なども紹介しております。 またそれらの出典元になる書籍と発行日時、一部のものは所蔵元を明記させていただきました。 著作権をお持ちの方には、個人的な学術研究・非営利な発表ということで、ご理解いただければ幸いと存じております。 なお、一部イラスト・写真等は、製作者・遺族の方より承諾を得て、紹介させて頂いております。 建築用語や構造説明に誤りがある可能性もございます。 そのつど御指摘していただければ幸いです。 但し私が撮影した写真に関しては、建築保存活動や学術発表など非営利目的での使用でしたら転載は構いません 大した写真では御座いませんが・・・・。 もし使用したい写真がございましたら、その記事のコメント欄に、目的・公開先等などをご一報ください。 遠藤が師であるフランク・ロイド・ライトと協同で設計を手掛けたから、比較的近い場所にあるこの教会は、昭和25年に竣工したもので、遠藤の遺作ともいえる作品である。 昭和24年に建設が開始されたというこの目白ヶ丘教会、終戦後の混乱期に建てられたこともあり、遠藤が戦前に手掛けた作品と比較するとその作りは至ってシンプルではある。 しかし限られた資材や予算でも、心豊かな建物や空間を造り上られるという、遠藤の情熱をも感じられる作品といえるのではないだろうか。 遠藤は終戦直後に心臓の病を患いながらも、目白ヶ丘教会のほかに日本各地の公立新制中学校の設計を手掛けるなど、精力的な建築活動を展開していたという。 残念ながらそれらの学校建築は既に現存していないが、遠藤はそれらの学校にもこの教会と同様の信念と情熱を注ぎこんだのではないかと、この教会を訪れるたびいつも想像してしまう。 そのような建築家の心が伝わってくるような、とても素敵な建物だ。 なお遠藤はこの教会が竣工した翌年に62年の生涯を閉じたが、新築の聖堂で遠藤の葬儀が執り行われたそうである。 また今年の春に聖堂外観を撮影したところ、一人の信者の方に声をかけられ、その方のご厚意により教会内を見学させていただくという幸運に恵まれた。 聖堂内部は豪華なステンドグラスやモザイクタイルなど目を見張るような演出はないが、本当に心が安らぐ穏やかな空間で、何時間でもいたいような気分になってしまった。 『贅の限りを尽くして・・・・』という事が、人間の心を満たすものではないと、遠藤設計の教会は教えてくれる。 今回内部を見学させていただいて、その思いがより一層強くなった私である。 なおこの日は信者の方総出で聖堂の掃除をされていたが、このような光景を見ていると、信者の皆さんがこの聖堂を本当に大切にされているのだなと痛感した。 この教会は作った人の心は勿論のこと、使う人たちの心があって今こうしてあるのだろう・・・・。 遠藤新の次男の故・遠藤楽氏の設計作品だ。

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