ほつかきつと。 広島牡蠣とは?

青空てにをは辞典 「~つと」

ほつかきつと

祟神58年( 紀元前40年)、天鈴(あすず)678年8月、ツノガアラシトが来日。 祟神天皇に5年仕えて帰るとき、ツノガアラシトの国に 任那(みまな)という国号を与えられた。 ツノガアラシトが半島についたとき、新羅の国から日本からの土産を奪われ、新羅と任那の間で争いが起きた。 武埴安彦の反乱、百襲姫と大物主の結婚、皇位継承の夢占、そして アラシト来朝、振根討伐の話が展開されている。 瑞垣宮(みづかき)の 五十八穂(ゐそやほ)八月(はづき) 紀元前40年、天鈴(あすず)678年8月 行幸(みゆき)して 笥飯(けゐ)大神(おおかみ)に 福井県敦賀市の氣比神宮 詣(もふ)でます 諸(もろ)祝ふとき 角(つの)一(ひと)つ ある人ここに 漂(ただよ)えり 言葉聞き得ず 原見(はら)の臣(とみ) そろり良武命(よしたけ) 良く知れば これに問はしむ その答え 「われは韓国(からくに) 君(きみ)の御子(みこ) ツノガアラシト 『紀』には「都怒我(つぬが)阿羅斯等(あらしと)」と記されている。 三品彰英は「都怒我(つぬが)」は新羅(しらぎ)や金官加羅の最高官位号「角干」を「ツヌア(ン)」と訓んだものかという。 「角が有し人」と意味にも思える。 父が名は ウシキアリシト 『紀』には「干斯岐(うしき)阿利叱智干岐(ありしちかんき)」と記す。 伝え聞く 聖の君に 服(まつら)ふと 穴門(あなと)に至る 山口県豊浦郡周辺 伊都々彦(いつつひこ) 臣(とみ)に曰くは 『この国の 君はわれなり ここに居れ』 人なり見れば 君ならず さらに帰りて 都路(みやこじ)と 浦島(うらしま)訪ね 出雲経て ややここに着く 神祭り 君ここにあり」 故(かれ)ツノガ 召して仕えば 忠(まめ)ありて 五年(ゐとせ)に賜(たま)ふ 名は 任那(みまな) カゾ峰錦(みねにしき) 国苞(くにつと)に 帰るアラシト 任那国(みまなくに) これ立ち初(そめ)ぞ 韓半島南部の国。 洛東江流域に存在した金官加羅国などをはじめとする加羅諸国の連合国家。 『紀』によれば日本の半島進出の拠点として「任那日本府」が置かれたと伝えられているが、実態がはっきりしない。 562年、北の高句麗や東の新羅に圧迫され滅亡した。 = 中略 = 時にアラシト 元国(もとくに)に 帰さに土産(みやげ) 奪われて 新羅(しらぎ)の国と 韓半島東南部慶州の地から起こり、祟神天皇41年( 紀元前57年)に朴赫居世がはじめて建国したと伝えられる。 第17代奈勿(なむる)王の時、神宮皇后に征服されたが、爾来中国の封冊を受けて、後に百済、高句麗を滅ぼし朝鮮全土を統一した。 仇(あだ)起こり 任那(みまな)の使(つか)ひ 角鹿神社から見る三社(左から大神御前神社・児宮・角鹿神社).

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ホツマツタヱ1 東西の名と蝕虫去る文

ほつかきつと

鋳金工家、金工史家、歌人。 明治7年1月1日、千葉県印旛 いんば 郡船穂村(現印西 いんざい 市)に生まれる。 本名秀治郎。 1897年(明治30)東京美術学校鋳金科を卒業し、さらに99年同校の研究科に進み、鋳金技術を研究するとともに、正岡子規 しき について和歌を学んだ。 1903年(明治36)から母校で鋳金史の講義を行う一方、08年に東京鋳金会を設立、ついで25年(大正14)には工芸済々会をおこして金工芸術の向上に尽くした。 27年(昭和2)帝展の第四部(工芸)の創設に参画してその委員、29年には帝国美術院会員、34年には帝室技芸員、37年には帝国芸術院会員になり、また33年から43年まで東京美術学校教授を務めるなど、金工界だけでなく工芸界の中心的存在として広く活躍し、53年(昭和28)に文化勲章を受けた。 昭和29年1月31日没。 作品は香炉、花瓶、釜 かま 、梵鐘 ぼんしょう 、置物など古典的題材をとりながら、表現には近代的感覚を盛り込んだ重厚で格調の高いものが多い。 また金工史家としては『日本金工史』『金工史談』などをはじめとして著述も多く、金工史研究の草分けとして大きな業績を残している。 歌集に『天之真榊 あまのまさかき 』(1935)がある。 [原田一敏] 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について.

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ホツマツタヱ34 ミマキの代 任那の文

ほつかきつと

祟神58年( 紀元前40年)、天鈴(あすず)678年8月、ツノガアラシトが来日。 祟神天皇に5年仕えて帰るとき、ツノガアラシトの国に 任那(みまな)という国号を与えられた。 ツノガアラシトが半島についたとき、新羅の国から日本からの土産を奪われ、新羅と任那の間で争いが起きた。 武埴安彦の反乱、百襲姫と大物主の結婚、皇位継承の夢占、そして アラシト来朝、振根討伐の話が展開されている。 瑞垣宮(みづかき)の 五十八穂(ゐそやほ)八月(はづき) 紀元前40年、天鈴(あすず)678年8月 行幸(みゆき)して 笥飯(けゐ)大神(おおかみ)に 福井県敦賀市の氣比神宮 詣(もふ)でます 諸(もろ)祝ふとき 角(つの)一(ひと)つ ある人ここに 漂(ただよ)えり 言葉聞き得ず 原見(はら)の臣(とみ) そろり良武命(よしたけ) 良く知れば これに問はしむ その答え 「われは韓国(からくに) 君(きみ)の御子(みこ) ツノガアラシト 『紀』には「都怒我(つぬが)阿羅斯等(あらしと)」と記されている。 三品彰英は「都怒我(つぬが)」は新羅(しらぎ)や金官加羅の最高官位号「角干」を「ツヌア(ン)」と訓んだものかという。 「角が有し人」と意味にも思える。 父が名は ウシキアリシト 『紀』には「干斯岐(うしき)阿利叱智干岐(ありしちかんき)」と記す。 伝え聞く 聖の君に 服(まつら)ふと 穴門(あなと)に至る 山口県豊浦郡周辺 伊都々彦(いつつひこ) 臣(とみ)に曰くは 『この国の 君はわれなり ここに居れ』 人なり見れば 君ならず さらに帰りて 都路(みやこじ)と 浦島(うらしま)訪ね 出雲経て ややここに着く 神祭り 君ここにあり」 故(かれ)ツノガ 召して仕えば 忠(まめ)ありて 五年(ゐとせ)に賜(たま)ふ 名は 任那(みまな) カゾ峰錦(みねにしき) 国苞(くにつと)に 帰るアラシト 任那国(みまなくに) これ立ち初(そめ)ぞ 韓半島南部の国。 洛東江流域に存在した金官加羅国などをはじめとする加羅諸国の連合国家。 『紀』によれば日本の半島進出の拠点として「任那日本府」が置かれたと伝えられているが、実態がはっきりしない。 562年、北の高句麗や東の新羅に圧迫され滅亡した。 = 中略 = 時にアラシト 元国(もとくに)に 帰さに土産(みやげ) 奪われて 新羅(しらぎ)の国と 韓半島東南部慶州の地から起こり、祟神天皇41年( 紀元前57年)に朴赫居世がはじめて建国したと伝えられる。 第17代奈勿(なむる)王の時、神宮皇后に征服されたが、爾来中国の封冊を受けて、後に百済、高句麗を滅ぼし朝鮮全土を統一した。 仇(あだ)起こり 任那(みまな)の使(つか)ひ 角鹿神社から見る三社(左から大神御前神社・児宮・角鹿神社).

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