ラマヌジャン。 天才数学者ラマヌジャンはコンタクトマン?

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン

ラマヌジャン

はじめに 「ラマヌジャン」という名前を聞いて、これがインドの有名な数学者であると知っている人は、数学通か相当な物知りである。 数学が好きな人にとっては、何とも言えない響きを有しているその名前は、一般の人には何の興味も呼び起こさないものだと思われる。 ラマヌジャンは、「インドの魔術師」と言われ、32歳の若さでこの世を去った夭折の天才数学者である。 このラマヌジャンの短い生涯を表した映画作品である「奇蹟がくれた数式」(原題:The Man Who Knew Infinity)が、2016年10月に公開された。 今回は、このラマヌジャンについて、紹介したい。 なお、ラマヌジャンについては、藤原正彦氏がその著書「心は孤独な数学者」(新潮社)、「天才の栄光と挫折 数学者列伝」 新潮社 (文春文庫)等で紹介しているので、詳しい内容に興味がある方はこれらの著書を参照していただきたい。 ラマヌジャンとは シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(Srinivasa Aiyengar Ramanujan)(1887〜1920)は、南インドのタミル・ナードゥ州タンジャーヴール県クンバコナム(Kumbakonam)で生まれ育った。 私自身はこの地を訪れたことはないが、世にも稀有な天才を生み出した街として、何とも言えない雰囲気を感じさせてくれる地なのではないかと推察している。 できれば一度は訪れたいと思っているが、おそらくかなわぬ夢であろう。 ラマヌジャンは、母親の教育のおかげで敬虔なヒンドゥー教徒であった。 カースト制度の最上級のバラモン階級の家庭に生まれたが、豊かな生活を送っていたわけではなかった。 幼い頃から、学業は優秀で、数学に強い関心を有しており、大学に入学したが、数学に没頭するあまり、あまり授業に出席せず、試験に落第して、退学を余儀なくさせられた。 その後港湾事務所の事務員の職に就きながら、独自で数学の研究を行い、いくつかの数式をノートに書き留めていった。 彼は、こうした得た自らの研究成果を英国の何人かの教授に送った。 その研究がケンブリッジ大学のゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ(Godfrey Harold Hardy)教授の目に留まり、英国に招聘されることになる。 当時、海外渡航をするということは、バラモンの戒律を破ることになり、カーストから追放され、友人や親戚を失い、社会的に抹殺されることにもなることを意味していたが、周囲の支援もあり、神の特別な許しも得て、ケンブリッジ入りすることになる。 ただし、菜食主義で、バラモン以外の者が料理したものを不浄として口にしないという主義を貫いていたことから、英国では満足な食事をとることができなかった。 周囲との付き合いも限られ、不規則な生活を行う中、第一次世界大戦の勃発で野菜等の入手も困難になったこともあり、ついには渡英後3年ほどして、病魔に襲われてしまう。 その後インドに戻るが、嫁姑の諍い等の問題も抱える中で、1920年に32歳という若さでこの世を去ることになる。 藤原正彦氏の著書によれば、「ラマヌジャンは、『我々の百倍も頭がよい』という天才ではない。 『なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない』という天才なのである。 」ということである。 さらには、「数学や自然科学における発見のほとんどすべてには、ある種の論理的必然、歴史的必然がある。 だから、『十年か二十年もすれば誰かが発見する』のである。 」 「アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、二年以内に誰かが発見しただろうと言われる。 」 「ところがラマヌジャンの公式群に限ると、その大半において必然性が見えない。 ということはとりもなおざす、ラマヌジャンがいなかったら、それらは百年近くたった今日でも発見されていない、ということである。 」と記されている。 その意味で、ラマヌジャンは、アインシュタインをも超える大天才だったということになる。 ラマヌジャンの逸話-タクシー数- ラマヌジャンにはいくつかの逸話(エピソード)があるが、その中でも最も有名なものは、映画「奇蹟がくれた数式」の中でも取り上げられている「タクシーのナンバープレート」に関するものである。 1918年2月頃、ラマヌジャンは療養所に入っていたが、そこにハーディが見舞いにやってくる。 ハーディが、自分が乗ってきたタクシーのナンバープレート「1729」について、「何の特徴も無いつまらない番号だ。 」と述べたのに対して、ラマヌジャンは「とても面白い番号です。 1729は2通りの立法数の和として表される最小の数です。 」と反論したとのことである。 即ち、1729は、以下のように表現できる。 このエピソードは、ラマヌジャンがいかに数に対する探究心が強かったかを示している。 (注)なお、自然数だけでなく、負の数を含む整数の立法和ということで考えれば、91が最小(絶対値が最小)ということになる。 91=6 3+ -5 3 =4 3+3 3 ラマヌジャンの功績 あまり難しい話は避けて、比較的わかりやすいものを紹介する。 映画の中では「分割数」と呼ばれる問題が描かれている。 「分割数(partition function)」p n とは、自然数nの分割(nをその順番の違いを除いて自然数の和として表す方法)の総数を表す関数である。 例えば、4は、4=1+1+1+1=1+1+2=1+3=2+2 のように5通りに表すことができるので、p 4 =5 となる。 この分割数について、ラマヌジャンとハーディはその漸近式として、 となることを発見している。 さらには、ラマヌジャンは、以下を発見している。 さらに、ラマヌジャンは、モジュラー関数と呼ばれる考えをもとに、次の円周率の公式を発見している。 なお、木村俊一(広島大学大学院研究科教授)によれば、「ラマヌジャンが発見した擬テータ関数はブラックホールの研究に登場し、整数論的な起源を持つタウ関数についての予想は、ラマヌジャングラフとして回線の切断に強いインターネット網の研究につながる。 」、「深い水脈を通って、ラマヌジャンの研究は今ようやく理解され、役立ち始めているのである。 」(「奇蹟がくれた数式」公式サイトより)とのことである。 まとめ 数学者をモデルとする映画や文学作品はこれまでにもいくつか見られる。 の眼で取り上げた「博士の愛した数式」も、実在の数学者を対象としたものではないが、主人公は数学者で、映画の中でいろいろと数学の話題が出てくることについて触れた。 数学者が大成するためには、これまでに誰も考えたことのないような発想で困難な問題を解決していくことが求められる。 その過程では、周囲の人には必ずしも十分に理解されない状況も経験することもあり、そうしたエピソードがこうした映画や文学作品の中で描かれていたりする。 こうした事実に触れることは、世俗的な業務に追われて、今ひとつ純粋さを失いつつある日常生活の中で、ある意味において新たな感動を呼び起こされてくれる。 なお、映画「奇蹟がくれた数式」については、数学に興味の無い方でも、文化・歴史・宗教等の様々な違いを背景にしたエピソードが描かれていることから、いろいろと感じさせてくれるものが多いのではないか、と思われる。 現在、この映画を上演している映画館は極めて限定されている。 今後もどの程度の上演機会があるのかはわからないが、興味がある方は、3月下旬にDVD等もリリースされるようなので、そちらをご覧いただければと思っている。

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ラマヌジャンの円周率公式を理解したい 第一回

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また、第6章以降では、ラマヌジャンの研究と、リーマン予想やフェルマー予想との関係など、数式の展開は理解できませんでしたが、雰囲気は なんとなくつかめました。 最近、「多変数複素解析の基礎」を、書きながら、少しまとまるとHPにUPして印刷したものを元に研究している。 Hartogsの逆問題は仕上がっていないのだが、飽きて一意化関連を考えている。 これで一応終わりとして、コンパクトケースと応用問題については別論文にするつもり。 あくまでもつもりであるが。 最近息抜きに虚数乗法関連など、言葉だけ知っている関連本を身の回りに置きだしたが、タイミングよく、上記の本が出たので、安かったので購入し、母屋の私塾室で、ガーデニングなどの骨休み時などにCDを聴きながら、お茶を飲みながら少しずつ読んで?今読み終えた。 ゴミ出しは8時過ぎにするので、その間に離れの書斎でこれを打ち込んでいる。 難しいので、眺めただけと言えるが、やっぱりオイラー積とかキーワードが頭に印象づけられた。 関数論の教科書には必ず書いているワイエルシュトラスの乗積定理というのがあるが、それ自身何のことか分からないが、わからないもの同士であるが、オイラー積とおそらく関係しているはずだ。 このあたりは、楕円関数、モジュライ、虚数乗法、ゼータ関数、テータ関数など良いにおいがクンクンする。 sin xの因数(無限にある)からオイラーの無限積が出くるが、高校で証明など出来ないし、する必要はないが、因数定理を教えるときに、因数が無限にあるとき、こういう公式があり、無限積の収束と言う問題があるが、多分関孝和もそれを知って、そのあたりからsin の逆関数のマクローリン展開を求めパイの近似値を求めたと思うが、少しお話として教えたらどない? 村の鍛冶屋は音楽の教科書からはずされたらしいが、別に音楽の時間に皆で歌うことは禁じられていないし、新しい人気曲などは教科書にいれなくても、生徒はTVなどで知っており、よく歌っているケースが多い。 どうも時代について行っていない大人が、時代について行こうと、とっくに時代を越えつつある生徒に教育してやろうという。。。 横道にそれたが、この件については、もう少しクリアーにするべく、「オイラー、リーマン、ラマヌジャン」を読み直そうと思っている。 楽しい老後?である。 ただそれなりに気合い?を入れないと楽しさを深めることはできない。 あくまでもお気楽ににではあるが。

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【インドの魔術師】ラマヌジャンの見つけたクールな式【11式】

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はじめに こんにちは、歴史と数学が 大好物のdaimaです。 本日は、 歴史に名を残す天才数学者達の マジキチエピソードをご紹介します。 ピュタゴラス — Pythagoras BC582 〜 BC496 誰もが知っているあの定理の発見者 ピタゴラスイッチピュタゴラスと言えば、 直角三角形の3辺の長さの関係を表す ピュタゴラスの定理で知られる 古代ギリシアの数学者です。 ピュタゴラスは音楽にも造詣が深く、 鍛冶屋の金槌の音の響き合いにヒントを得て 和音の法則 ピタゴラス音律 を 発見したという逸話が残っています。 しかしピュタゴラスは 優れた数学者でありながら、 同時に狂信的な宗教家としての 一面も持ち合わせていました。 調和のためなら弟子をも殺す。 狂気のピュタゴラス教団 若き日のピュタゴラスは 知識を求めて旅立ち、 エジプト、ペルシア、中央アジア、インドなど 世界各地を20年にわたって放浪し あらゆる学問を身に着けた末に、 イタリア半島南端のクロトンという町で 「アルケー 万物 は数なり」を 教義とする宗教結社、 ピュタゴラス教団を創設しました。 『女性のクラスを教えるピュタゴラス』 教団の入団資格は厳しく、 私財を全て教団に収めた上で 人相占いなどで 「どのくらい 真理を求める気持ちがあるか」 を審査され、入団後もまずは 聴聞生として2年から5年間の間 沈黙を守り、先輩の教えを聞いて 理解することだけが 求められました。 また、ピュタゴラスは 数の調和を重んじるあまり、 調和を乱す存在を許すことができず、 整数でも分数でも表せない 無理数の存在を口外した 弟子ヒッパソスを 海に沈めて殺してしまったと 伝えられています。 カリスマ性が災いし、最期は民衆に襲われて死亡 ピュタゴラスの最期については 諸説ありますが、一説によると ピュタゴラスの僭主化を恐れた 民主派の住民による襲撃に遭い 多くの弟子を殺され、 ピュタゴラス自身も85歳のときに ギリシアのメタポントで喉を切られて 殺害されたと記録されています。 数学の真理探求が、 狂信的行為や殺人につながったという、 本稿一発目のマジキチエピソード。 ヒュパティア 350 〜 415 古代の美しき天才女性数学者 続いてご紹介するのは 古代ローマ時代を生きた、 歴史的に見ても数少ない 女性数学者 ヒュパティアです。 アレクサンドリアの図書館館長 テオンの娘として生まれたヒュパティアは、 数学、天文学、科学の分野で 類稀なる才能を発揮し、 アテナイへの留学後は 哲学学校の教師となりました。 聡明で美人であったヒュパティアは 学生たちだけでなく、 為政者の中にも多くの熱狂的な 支持者がいたと伝えられています。 あまりにも惨すぎる最期 しかし、そんなヒュパティアを 待ち受けていたのは あまりにも残酷な運命でした。 当時はキリスト教が勢力を強め、 異教徒への弾圧を激化していた時代。 不幸なことにヒュパティアは、 女の身で男たちに学問を説き、 神秘を否定する冒涜者として このキリスト教徒たちに 目をつけられてしまったのです。 そして412年、 強硬派の キュリロスが アレクサンドリアの総主教となり、 緊張が高まる中の415年、 とうとうある事件が起こります。 3月のある日、学園に 馬車で向かうヒュパティアを、 キュリロス配下の 修道士たちが引き摺り下ろし、 教会へ連れ込んで裸にすると、 鋭いカキの殻でヒュパティアの肉を 生きたまま骨から削ぎ落として、 遺体を火で焼いてしまったのです。 ここでカキの殻が用いられたのは、 当時のギリシャ圏でカキの殻が 屋根瓦に利用されていたため Louis Figuierによる絵画『アレクサンドリアの哲学者ヒュパティアの死』 このあまりに酷い死が知れ渡ると アレクサンドリアの学者達は 次は我が身と恐れをなして 雪崩を打ったように国外へ亡命。 こうして、かつては学都として 栄華を誇ったアレクサンドリアの街は、 一気に衰退の道を辿ったのでした。 宗教的な迷妄が偉大な理性を殺した あまりにマジキチすぎるこの結末。 私はこの話を知って、 自由に学問ができる今の時代に生まれて 本当に良かったとしみじみ思ったものです… 関孝和 1642 〜 1708 近世日本を代表する和算の立役者 関孝和 せき たかかず は 算聖と呼ばれた 江戸時代の数学者です。 関孝和が生きたのは17世紀後半ですから、 ちょうどニュートンと同時代の 人物になるわけですね。 幼少時から数学の才能を発揮した関は、 当時江戸で流行っていた 塵劫記という 数学入門書を愛読し、 成人後には、奈良の寺にある 数百年誰にも解けなかった中国の算術書、 『揚輝算法』を、 乱丁や答えの間違いまで 完璧に修正した上で全て 解いてしまったという 逸話も残されています。 鎖国体制の日本で西洋の最先端とタメを張れるリアルチート 関孝和の何がすごいのかと言えば 中国の天元術を元に生み出された 日本独自の数学体系である 和算の発展の立役者となったこと、 そして 鎖国体制の日本で 同時代の西洋に並ぶ非常に ハイレベルな数学をやったことです。 特に有名なのが円周率の計算で、 暦の作成に利用する目的で 正131072 2の17乗 角形を使って、 小数点以下16桁までの正確な 円周率を算出しています。 ベルヌーイ数や二項係数について書かれた『括要算法』 また他にも 行列式の発見や ベルヌーイ数の発見、 さらには 微積分に近い計算まで 独自で編み出していたそうです。 歴史が深く、国家間の 数学者同士の連携も可能だった ヨーロッパならともかく、 鎖国時の日本でここまで到達する 人物が居たということは、 冷静に考えると相当、 驚異的なことではないでしょうか。 ちなみに余談ですがこの関孝和、 江戸時代の囲碁棋士 渋川春海 安井算哲 を主人公とした 冲方丁の歴史小説、 『天地明察』にも 重要なポジションで登場していたりします。 この作品には関をはじめとする 江戸時代の数学者の活動や情熱が 丹念に描かれており、 もし関孝和にご興味がおありであれば ぜひともお読みいただきたい一冊です。 エヴァリスト・ガロア — evariste galois 1811 〜 1832 わずか21歳で夭折した数学の神童 エヴァリスト・ガロアは、 フランス革命から22年後の 1811年、パリの南にある ブール・ラ・レーヌという 小さな村に生まれました。 十六歳ではじめて 数学の授業を受けたガロアは、 教師達が困惑するほど これに熱中するようになり、 十七歳の時には 『ジェルゴンヌ数学年報』に 自身の処女論文を 発表するまでになります。 また、相対性理論や量子力学に欠かせない 「群論」の先見的な研究を行って アーベル—ルフィニの定理を完成させ、 五次以上の方程式には解の公式が 存在しないことを明らかにしたのも ガロアの大きな業績です。 しかし、これだけの偉業を成したガロアは、 21歳という異様な若さで世を去っています。 ガロアの運命を変えたのは、 生来の向こう見ずな性格と 当時の不安定なフランスの 政治情勢でした。 死因は決闘。 時代の荒波に飲まれた天才の悲劇 ガロアの性格を物語るエピソードの一つに、 当時の名門校、エコール・ポリテクニクへの 入学試験での一幕があります。 教授達を凌駕する才能を持ち、 尚且つ権力嫌いだったガロアは、 試験の際も試験官が理解できないような 洗練された解法で問題を解き、 そのくせ過程は書かないなどという 反抗的な態度を見せ、 学校側の心象を大きく損なっていました。 さらにガロアは一度目の試験の際、 口頭試問でぶっきらぼうな答えをして 不合格となり、二度目の試験では、 論理的に飛躍のある回答をして 試験官を混乱させたばかりか、 才能が認められないことに苛立ち、 黒板消しを試験官に投げつけたために、 二度とエコール・ポリテクニクの門を 潜ることが叶わなくなってしまったのです。 また、ガロアは 体制派に弾圧されて死んだ父や、 共和運動に参加して放校処分になった 学友達の影響もあり、 共和派の運動に 強く共鳴していました。 エコール・ポリテクニクを諦め、 代わりに入学したエコール・ノルマルでは 王政主義者の校長ギニョーを 名指しで批判して放校処分となり、 その後も、公然と体制側を批判し、 体制への抗議運動に参加するなどして 二度も逮捕されています。 そして運命の1832年。 ガロアはステファニーという 医者の娘をめぐる色恋沙汰で デルバンヴィルという紳士に 決闘を申し込まれることとなります。 この決闘自体が ガロアを抹殺するために 仕組まれたものだった という説もあります。 愛国者諸君、ぼくの友人諸君、 ぼくが祖国のため以外のことで 死んでゆくのを責めないでくれ。 ぼくは恥知らずのコケットと このコケットにだまされた 二人の男の罠にかかって死ぬ。 みじめな誹謗のなかに、 わが人生は消えてゆく。 ああ、何てつまらんことのために、 何て下劣なことのために死ぬんだろう。 天に誓って言うが、 僕はあらゆる手段で この挑発を避けようとしたけれど、 いかんともしがたくこれに屈したのだ ガロアの残した手紙の一節 サイモン・シン著 フェルマーの最終定理より引用 決闘前夜にガロアが綴ったノートの一部 対決の前夜、残された僅かな時間で 友人達に最期の別れの言葉と ありったけの数学的アイディアを 手紙にしたためたガロアは、 1832年5月30日、 デルバンヴィルとの決闘に臨み、 腹部を撃たれてその場に倒れ伏します。 ガロアは数時間その場に放置され、 その後駆けつけた弟のアルフレッドによって コシャン病院に担ぎ込まれますが、 腹膜炎によって翌日息を引き取りました。 Ne pleure pas, Alfred! 訳:泣かないでくれアルフレッド。 20歳で死ぬということは、 ありったけの勇気がいるんだからな。 引用元: 弟アルフレッドに残した ガロアの最期の言葉です。 ガロアほどの才能が、 色恋沙汰の決闘で散るという結末は、 人の運命のままならなさを 思い知らされるかのようですね。 シュリニヴァーサ・ラマヌジャン — Srinivasa Ramanujan 1887 〜 1920 数式は、神様が教えてくれた 続いての数学者は、 直感的方法で数々の エレガントな数式を生み出し、 「インドの魔術師」と呼ばれた シュリニヴァーサ・ラマヌジャンです。 貧しいバラモン階級の生まれである ラマヌジャンは、英国の数学者 ハーディが その才能を見出し渡英するまで、 証明という概念すら知らず、 得られた定理に対しては、 「寝ている間にナーマギリ女神が教えてくれた」 などの理由付けをしていました。 ラマヌジャンの公式 wikipediaより引用 しかしその数学的センスは ケンブリッジ教授のハーディも 驚くほど非凡なものであり、 上記のモジュラー関数の 考えに基づいた円周率の公式や ゼータの積構造の発見など、 多分野に渡って数々の 目覚ましい業績を打ち立てたのです。 また更に言えば、 1995年のアンドリュー・ワイルズによる フェルマーの最終定理の証明も ラマヌジャンによる 新しいゼータ関数の発見なくしては あり得なかったというから驚きです。 ラマヌジャンのタクシー数 ラマヌジャンの天才性を 表すエピソードとして 特に有名なのが ラマヌジャンのタクシー数の エピソードです。 1918年2月ごろ、 ラマヌジャンは療養所に入っており、 見舞いに来たハーディは次のようなことを言った。 「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。 さして特徴のない数字だったよ」 これを聞いたラマヌジャンは、 すぐさま次のように言った。 「そんなことはありません。 とても興味深い数字です。 それは2通りの2つの立方数の 和で表せる最小の数です」 実は、1729は次のように表すことができる。 いやぁ〜、天才って怖いですねぇ… イギリスの環境が合わず早逝 そんな良い意味でマジキチな 天才ラマヌジャンでしたが、 惜しいことに わずか32歳の若さで亡くなっています。 死因は、結核、ビタミン欠乏症、 肝炎など諸説あり定かではありませんが、 ラマヌジャンがヒンドゥー教徒で ベジタリアンであったこと、そして 第一次大戦時で食物が十分に 得られなかったことが 大きな要因となったようです。 西洋的な合理性とは別の 直感的な方法で数学の新境地を 切り開いたラマヌジャン。 かつてその才能を見出したハーディは、 「ラマヌジャンを見出したことが 私の最大の業績だった」と 晩年語ったそうです。 クリストス・パパキリアコプロス — Christos Dimitrios Papakyriakopoulos 1914 〜 1976 ポアンカレ予想に人生を狂わされた数学者 クリストス・パパキリアコプロスは 幾何学的位相幾何学を専門とする ギリシア出身の数学者です。 アメリカに渡り、 パパの愛称で親しまれた パパキリアコプロスですが、 彼の人生は世紀の難問 ポアンカレ予想によって 大きく狂わされていくのでした。 ポアンカレ予想の概要については グレゴリー・ペレルマンの項を参照 真理に全てを捧げた末に… ポアンカレ予想に 取り組み始めたパパは、 徹底した秘密主義を貫き、 自分の生活の時間のほぼ全てを ポアンカレ予想の証明に 費やすようになります。 その全身全霊ぶりは プリンストン大学から 教授職の申し出があった際にも 研究に専念するためにと これを辞退してしまうほど。 彼は渡米後25年間、 ホテルの同じ部屋で暮らし、 毎日機械のように規則正しい生活を送り、 父の葬儀の時の一回を除いては一度も 祖国へ帰ることはなかったそうです。 パパのポアンカレ予想への 執着は並大抵のことではなく、 ライバルのヴォルフガング・ハーケンが 自分より先にポアンカレ予想を 証明したと発表した時など、 パパは非常に取り乱し、 ハーケンの証明の欠陥が明らかになった後も、 精神に不調をきたすようになってしまいます。 その後も最期まで ポアンカレ予想の証明に 人生を捧げたパパでしたが、 ポアンカレ予想を解明することは叶わず パパは1976年、62歳の時に 癌で死去してしまいました。 生涯独身であったパパは 「ポアンカレ予想が解けたら結婚しよう」 という、 死亡フラグギリシア時代の 恋人との約束をついに果たせず、 死後葬式も行われず、 親しかった友人ですら 最後まで彼の正確な墓所を 知ることはなかったそうです。 数学に潜む魔物の恐ろしさを 思い知らされるようなエピソードですね。 パパキリアコプロスをモデルとして、 同じくギリシア出身の アポストロス ドキアディスによって 「ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」 という小説が出版されています。 ラマヌジャンやチューリング、 ゲーデルなどパパと同時代の数学者も 豊富に登場し、なかなか 読ませる一冊に仕上がっていますよ。 アレクサンドル・グロタンディーク — Alexander Grothendieck 1928 〜 2014 ブルバキのメンバーでもあった天才数学者 続いてご紹介するのは、 スキンヘッドと鋭い眼差が少し怖い、 ドイツ出身のユダヤ系数学者 アレクサンドル・グロタンディークです。 その業績は、 代数幾何学の近代化、 l-進コホモロジー、クリスタリンヌ・ コホモロジーの発見による ヴェイユ予想への貢献など、 20世紀の数学者の中でも 特に群を抜いたもので、 1966年には フィールズ賞も受賞しています。 一見して、数学者として 順調にキャリアを積み上げて いたかに見えたグロタンディーク。 しかし1970年 グロタンディークが42歳の時に、 それまでの人間関係やキャリアを 突如断ち切って、 世捨て人のような生活に 突入してしまいます。 平和活動にのめり込んで世捨て人に… グロタンディークは、 NSDAP ナチ党 が勢力を増しつつある 1928年のベルリンで、 過激な左派運動に参加するアナキストである シャピロとハンナの夫婦の元に生を受けました。 このような出自と、 自身の戦争体験からか グロタンディークは年を経るにつれ、 過剰なまでに反戦運動と環境問題に のめり込んでいきました。 その後は自身を 「好戦的行動主義者」と宣言し、 小さな機関で研究を続けたり、 Survivre et Vivreという グループの設立を行う等しましたが、 その急進的すぎる思想は 世間の理解を得ることができず、 次第にグロタンディークは 周囲から孤立していきます。 1980年代に入ると グロタンディークは精神的に不安定になり、 ピレネー山脈の小さな村へ恋人と移住。 そして1991年、 当時の恋人の家の庭で 数千ページの原稿を焼き捨て、 以後消息を完全に絶ってしまいます。 その後しばらく 表舞台に姿を見せることはなく、 2010年には、教え子に依頼して 許諾のない自身の著作を ネット上から大量に削除。 最期は2014年11月13日に フランス南西部サン・ギランスの 病院で息を引き取りました。 数学者として、 誰もが羨むような栄誉を掴みながら、 自らの思想のために、それらを全て 投げ捨ててしまったグロタンディーク。 その生き方を否定することはできませんが、 もし彼が純粋に数学の研究を続けていれば どれだけの成果を残していたのかと考えると なんとも歯がゆい思いがしますね。 57は素数…? グロタンディークについて 有名なエピソードの一つに グロタンディーク素数があります。 これは、 素数の一般論に関する講義の最中に、 具体的な素数による解説を求められた グロタンディークが、 合成数である57を挙げてしまった 出来事に由来するジョークです。 グロタンディークが 具体的な対象よりも、 抽象的な一般論に関心があったことを 示す印象的なエピソードですね。 単なるミスかもしれませんが グリゴリー・ペレルマン — Grigory Perelman 1966〜 世紀の難問ポアンカレ予想を解決 グリゴリー・ペレルマンは ロシア出身の数学者。 子供時代から ずば抜けた才能を発揮し、 16歳の時にはソ連国内の 数学コンクールを勝ち抜いて、 最年少で国際数学オリンピックの 代表選手に選ばれています。 また、恐ろしいことに、 ペレルマンは数学だけでなく 物理学の方面でも非常に優秀でした。 そしてこの物理の才能は、 後にポアンカレ予想解決の 大きな武器となります。 時は移って1990年代。 ソ連の崩壊をきっかけとして、 ペレルマンはアメリカへ移住。 そこで3年を過ごした後に いよいよ世紀の難問 ポアンカレ予想への挑戦を開始します。 ポアンカレ予想の内容については あまりにハイレベルすぎて 正確な説明は叶いませんが、 ご参考までにwikipediaから 簡単な概要を引用しておきます 宇宙の中の任意の一点から 長いロープを結んだロケットが 宇宙を一周して戻って来たとする。 ロケットがどんな軌道を描いた場合でも ロープの両端を引っ張って ロープを全て回収できるようであれば、 宇宙の形は概ね球体である (ドーナツ型のような穴のある形、ではない) と言えるのではないか、というのが (3次元)ポアンカレ予想の主張である wikipediaより引用 …雰囲気はつかめましたでしょうか? 正直この辺は、 前述したNHKのドキュメンタリーを ご覧になるのが一番わかりやすいかと思います。 1995年にペレルマンがアメリカから帰国し、 さらに7年後の2002年。 インターネット上に、ポアンカレ予想と、 ポアンカレ予想の証明に必要な 幾何化予想の証明が掲載されている という噂が流れます。 そう、それこそが ペレルマンが10年近い歳月をかけて 成し遂げた、 ポアンカレ予想の 完全なる証明だったのです。 ペレルマンが登場する以前、 ポアンカレ予想に取り組む数学者は、 主に トポロジー 位相幾何学 という 数学の分野を精力的に研究していました。 しかしペレルマンの証明は、 トポロジーではなく、 微分幾何学や 物理学のアプローチによる 前例のない独創的な手法で ポアンカレ予想を解決するものでした。 プリンストン大学でポアンカレ予想の解説をするペレルマン この証明に数学界は騒然となり、 足掛け4年に渡る論文の査読の末に、 ペレルマンは正式に ポアンカレ予想の解決者として ミレニアム懸賞を受賞することなります。 しかし、ペレルマンはその後 なぜか表舞台から姿を消し、 100万ドルの賞金と 2006年に授与された フィールズ賞も辞退してしまいます。 しかも後の取材によると ペレルマンの生活は豊かとは言えず、 わずかな貯金と母親の年金に頼って 細々とアパート暮らしを 続けているというのです。 ペレルマンの身に 一体何が起きたというのでしょうか? ペレルマンの論文発表後、 その査読は長い時間をかけて 行われていたのですが、 そこに現れたのが朱熹平と曹懐東という 二人の中国人数学者でした。 彼らは 「ペレルマンの証明には欠陥があり、 自分たちこそが完全なる証明を 行なったのだ」と宣言し、 さらにそこへ数学界の大物、 丘成桐が後押しを加えて、 自分たちこそがポアンカレ予想の 解決者であると主張を始めたのです。 結局、朱熹平と曹懐東の論文には コピペなどお粗末な欠陥が次々に見つかり、 ポアンカレ予想の解決者が ペレルマンの功績であることは 揺らぎませんでした。 ですが、もしこれが事実だとすると、 人生をかけて得た名誉を 他人に奪われそうになった ペレルマンの心痛は 想像に余るものがあります。

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