霞ヶ浦。 霞ヶ浦・桜川の治水と洪水の歴史

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霞ヶ浦

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霞ヶ浦・桜川の治水と洪水の歴史

霞ヶ浦

名称 [ ] 発行の「標準地名集(自然地名)」では「ケ(大文字)」を用いており、地名としては「霞ケ浦」が正式表記である。 国が「ヶ(小文字)」を、茨城県が「ケ(大文字)」を用いる傾向にある。 「霞ヶ浦・北浦」という表現のように事実上西浦のみを指して使われる場合も多く、定義が混在している。 霞ヶ浦は古代に「流海」(ながれうみ)か「浪逆の海」(なさかのうみ)と呼ばれ、に入って「霞の浦」と歌に詠まれていたが、の「外の海」に対して「内の海」ともいわれた。 「霞ヶ浦」と呼ばれるようになったのはになってからのことである。 語源 [ ] 『』のの条にある「香澄(かすみ)の里」に由来すると言われる。 が付き随う臣下に「海には、すなわち青い波が漂っており、陸には、これまた、赤色の霞がたなびいている。 国がその中にあると私の目にはみえる。 」と言ったことは語源の1つだとされるが 、明確にいつ、誰が名付けたかに関しては不明である。 地理 [ ] 潮来・鹿嶋両市境の列車内から望む北浦 湖面積220. 0は日本第2位 、茨城県最大。 主な水域別の積は次のとおり。 西浦(172平方キロメートル)• 北浦(36平方キロメートル)• 外浪逆浦(6平方キロメートル)• 常陸利根川(6平方キロメートル) なお、部に位置するためは2156. 7平方キロメートルと広く、茨城県の面積の約3. 水際線延長は249. 5キロメートルで、これは日本最大面積の湖である(235. 0キロメートル)の水際線延長を超える。 平均水深は約4メートル、最大水深は約7メートル、年間流下量は約14億、貯留量は約8. 5億立方メートル。 主な流入河川は、、巴川、など。 にあるため、期とによる降水が多く、冬は晴天が多く降水量が少ない。 特に周辺では冬に「筑波颪(つくばおろし)」と呼ばれる強い北西のが吹く。 流域の年間平均は約1,300ミリメートルで全国平均(約1,780ミリメートル)に比べると少なめである。 北にはがあり、南にはが流れ、北西にはの南端にあたる(標高877メートル)を擁している。 周辺は、と低地が入り組んだ場所が多く、筑波山は周辺の最高点であるためなど比較的遠く離れた場所でもよく望むことができる。 西浦と北浦の間の大部分は、海抜30m程度の行方台地となっており、広大な農業地帯である。 元々は「浦」という名前が示すように海の入り江に由来し、や河川堆積物によって出口を閉ざされたである。 そのため、時期や場所によってに違いはあるものの、かつての湖水は塩分が混じるであった。 特にからには、下流の河川改修(浚渫)の影響で海水が遡上し、近年ではもっとも汽水化が進んだ時期だった。 当時を知る人々にとって「汽水湖」という印象が強いのはそのためである。 しかし、にと防止を目的にして竣工した(逆水門)を利用することで淡水化が進行した (詳しくはを参照)。 そのため、現在はほぼとかわらない状況にある。 西浦 [ ] 面積約172平方キロメートル、海抜高度0. 2メートル、最大水深7メートル。 狭義の霞ヶ浦である。 土浦方面に伸びる水域を「土浦入(つちうらいり)」、石岡方面に伸びる水域を「高浜入(たかはまいり)」 、この両者が交わる出島沖の広い水域を「三叉沖(みつまたおき)」と呼ぶ。 他に、「江戸崎入(稲波干拓)」、「甘田入」、「大山入(余郷入)」などがあったが、昭和期の干拓事業により消滅した。 羽賀沼、野田奈、西の洲、本新、八木などの干拓も行われ、湖水域は減少した。 浮島の和田ノ岬、の稲荷ノ鼻、稲敷市古渡の堂崎ノ鼻は、霞ヶ浦(西浦)に伸びてできたである。 北浦 [ ] 面積約36平方キロメートル、海抜高度0メートル、最大水深7メートル。 の水原洲吠崎、の爪木ノ鼻は北浦に伸びで出来た砂嘴である。 外浪逆浦 [ ] 面積約6平方キロメートル、最大水深9メートル。 浪逆浦を1893年に堤防で南北に仕切り、南が外浪逆浦。 内浪逆浦(うちなさかうら)は、外浪逆浦の北にあったが、昭和初期の干拓事業で農地となり消滅、現在は住宅地()となっている。 利用 [ ] 漁業 [ ] 現在の霞ヶ浦で主に漁獲されるのは・・・・・・・(など)・など。 エビ・イサザアミ・ゴロ・コイなどの量が多く、またワカサギやシラウオなどは付加価値が大きいため、重要な魚種となっている。 少量ではあるが、・・・・(セイゴ)・・・・(チャネルキャットフィッシュ)・なども漁獲されている。 ただ、特にブラックバスやペヘレイなどの魚種は現在のところほとんど商品価値がなく、あまり利用されていない。 また、アユは最近になって漁獲されるようになっている。 水揚げされた、、、などを用い、管理された原料・環境でが製造されから始まり魚類のやとして利用されて品として有効利用されている。 全般的に漁獲量はの漁獲量(17,487トン)をピークにして減少傾向が続いていて、には2,000トン台に突入。 の漁獲量は2,416トンであった。 魚種別に見ても減少傾向は変わらず、例えばワカサギはには1,000トンをこえることもあったが、90年代初頭には400 - 500トン前後となり、2000年の漁獲は51トンでしかない。 シラウオも一時300トン前後と回復傾向にあったが98年ごろから100トン前後になり、2000年の漁獲量は95トンだった。 また、漁獲量の約半分を占めるエビ・アミ類についても減少傾向にある。 漁業種別漁獲量を見ると、わかさぎ・しらうおひき網()が36. 定置網は張網ともいわれ、湖岸沿いからもかなりな数を見ることができる。 生産額は2000年の総額が8億6,100万円で、その内訳はエビが半分以上の4億6600万円、シラウオが1億600万円、ハゼが5,500万円、コイが5,000万円、ワカサギが4,200万円となっており、シラウオやワカサギが漁獲量に比べ生産額が高い。 においては、特にコイの養殖が有名で、かつては全国一の生産量を誇っており、などの他のコイ産地にも出荷していた。 しかし、の KHV の流行により壊滅的打撃を受け、翌年には全業者が廃業した。 2009年4月に養殖自粛要請が解除され養殖が再開されることとなった。 この他、浮島付近や江戸崎などでは淡水の養殖も行われている。 2000年の淡水真珠の浜揚量は135キログラムで、これは全国(181キログラム)のうちの約75%になる。 なお、生産額は7億100万円だった。 そして、霞ヶ浦の魚介類は、・・・などに加工されている。 煮干は古くから保存食として定着していたが、佃煮は明治以降に普及したものである。 煮干になる主なものはワカサギ・シラウオ・イサザアミ・エビで、佃煮はワカサギ・ハゼ・イサザアミ・フナ、焼き物はフナ(すずめ焼き)・ワカサギなどである。 焼きワカサギなどは独特の風味であるということで霞ヶ浦の特産品として特に珍重された。 しかし、近年は漁獲量の減少とともに霞ヶ浦産の原料の確保が難しくなっている。 また、行方市商工会はナマズや鯉を使ったというご当地グルメでをしている。 なお、霞ヶ浦の範囲には独立した「海区」が設定されており 、漁業法上、ではなくと同じ扱いを受けるほか、独自の(茨城県霞ヶ浦北浦海区漁業調整委員会)と漁業調整規則(茨城県霞ヶ浦漁業調整規則)を持っている。 近年、常陸川水門を部分的に開門するなどの措置を行うことにより、近隣水域の湖水が汽水と撹拌・浄化され、シジミやスズキなど日本固有種でかつ漁業価値の高い生息魚貝類の豊化の可能性が考えられている。 これはすなわち関連漁業資源の回復を意味するものである。 状況的には静岡県浜名湖 汽水湖 のように、漁業、遊漁業がかなり活性化される可能性を秘めている。 霞ヶ浦も以前は汽水湖だったので原点回帰策とも言える。 汽水化されれば先述のブラックバスやアメリカナマズなどの迷惑外来種も住めなくなり、代わってスズキやクロダイ、ウナギなどの付加価値の高い魚種に入れ替わる。 利水 [ ] 霞ヶ浦はや農業用水・工業用水の水源として使われている。 は茨城県(毎秒37. 23立方メートル)、千葉県(毎秒4. 19立方メートル)、東京都(毎秒1. 50立方メートル)におよび、合計で毎秒42. 92立方メートルとなっている。 しかし、その水質はや総・総などの化学的指標によると良好とはいえない状況が続いている。 また、湖水は茶色がかり、透明度も著しく低い状態となっており、場所によっては浮遊物(ゴミなど)が打ち上げられている場所も少なくなく、心象は決して清浄とはいえない。 にによって開設されたでの飲料用にも使用されているが、他の競馬場やトレーニングセンターとの比較で「水が悪い」と言われ、に水を飲ませるのに苦労するケースがこれまでも多々見られている。 から夏季を中心にの大発生・水道水の異臭・シジミ・養殖ゴイの大量死などが顕著に発生するようになり、にはCOD年間平均が過去最悪の11. これに対し「せっけん運動」などの市民運動が行われたり、に富栄養化防止条例が公布されたりするものの、この時期の強烈なイメージから「汚れた湖」・「死の湖」というイメージが定着するようになってしまう。 1990年代半ば以降、かつてのようなアオコの大発生は観測されていない。 しかし、それは水質が改善されてきたというよりも発生するが変化した結果と考えられている。 こうした霞ヶ浦のの特徴としては、流域が平地で面積も広く水深が浅いので、そもそも自然的にが進行するうえに流域での生産や生活活動の増大によって人為的な富栄養化が重なっている点、平均水深が4メートルと浅いために底泥が舞い上がりやすい点。 夏季の無酸素状態による窒素・リンの底泥からの溶出。 流入河川の総窒素・総リンの濃度が高い点、湖岸植生帯や流域の森林・水路の変化などによっていわゆる「自然浄化力」が低下している点などが挙げられている。 汚濁要因をみてみると、外部要因では生活廃水よりも、山林・田畑・道路などからの流出による面源系のものが多い。 具体的には流域で約40万頭に及ぶ養豚、沿岸地帯にひろがる約1700ヘクタールの蓮田によるものが特徴的とされている。 内部の要因としては底泥からの溶出などがあり、CODやリンで全体の負荷の半分近く、窒素で3割を占めるという。 こうした状況の中で、霞ヶ浦では主に霞ヶ浦を管理する(旧・)によって水質浄化対策が行われてきた。 その筆頭にあげられるのは底泥の事業である。 これは度より西浦の土浦入と高浜入で行われ、度からはその規模が大きくなって、一年間に50億円以上の予算を使い約50万立方メートルを浚渫しているとされている。 浚渫は窒素やリンを溶出させる底泥を除去しようというもので、比較的リンなどを多く含む表面から30センチメートルの底泥を対象にしている。 しかし、浚渫をしても新たな堆積物が積もるため、10年後には再び5 - 7センチメートルの底泥表面が新たに形成されてしまう。 そのため、広大な霞ヶ浦では汚濁後の水質浄化処理をしたとしても、汚濁原因も併せて改善させない限りその効果は限定的であるという指摘もある。 茨城県では、霞ヶ浦流域の住民を対象にした、下水道に接続する工事やを設置する際の工事の助成を行っている。 一方で常陸川水門を部分的に開門し、汽水との撹拌で水質を浄化する試みも模索し始められている。 この際、利水に必要な取水口の位置と汽水拡大範囲の関係確認などが必要であるが、現在考えられうる最も現実的な湖水浄化の手段である。 観光 [ ] 帆曳船 霞ヶ浦はや、などのレジャーに利用されているほか、湖上には・観光帆曳船が運航されている。 に選定されており、高度成長期以前は、独特の水郷景観を特徴とした観光地でもあった。 遊覧船• ラクスマリーナ「ホワイトアイリス号」• 常陽観光「ジェットホイルつくば号」• 観光帆曳船• 夏 - 秋期の金・土・日・祝日のみ運航。 西浦湖畔の観光スポット• 行方市• サンセットフェスタIN天王崎 … 毎年8月に湖畔の天王崎公園で、市内外の団体や個人から寄付を受けて開催されるイベントである。 夕方からステージ上でのイベントが開催され、夜には湖上花火大会が開催される。 打ち上げ数は毎年約5,000発で、1万人前後が訪れる。 かすみがうら市• 観光帆引き船「7月 - 11月までの毎週日曜日」• 帆引きフェスタ「5月のゴールデンウイーク」• 歩崎公園…主に霞ヶ浦に棲息している魚を展示しているがある。 土浦市• …4月中旬に霞ヶ浦湖畔で開催されるマラソン大会。 ランナー数は2万6千人を超え、東京マラソンに次ぐ日本第2位の規模の市民マラソン大会である。 泳げる霞ヶ浦市民フェスティバル…7月の海の日に霞ヶ浦湖畔で開催されるお祭り。 観光帆曳船…7月中旬 - 10月中旬の金、土、日、祝日の午後1時から午後2時半頃まで運航。 稲敷市• 和田公園…チューリップの名所である。 北浦湖畔の主な観光スポット• 生物相 [ ] 霞ヶ浦周辺は筑波山隗を除くとほとんどが台地と低地で構成される平地であるため、古くから農耕地などの開発が進み、それによって追いやられてしまったとされる生物も多い。 しかし、その反面や、などを主体とする二次林を中心に農地や小川・・、そしてなど生活空間を含めたのような環境で生きる生き物たち(例えばやなどのを最高次とし表徴とするようなもの)を豊かにはぐくんできた。 また、から湖、そして湖と姿を変えてきた遠浅で広いである霞ヶ浦の存在もその周辺に住む生き物を特徴付ける要因となっている。 植物 [ ] 霞ヶ浦のように勾配が緩やかな浅い水域のある湖では、陸から水面へと向かう「水辺」に環境条件の勾配があり、それに呼応するように抽水(挺水)植物(やなど)、浮葉植物(やなど)、沈水植物(など)などの多様な植生帯が発達していた。 こうした水生植物の群落は動物にとっても産卵場所・生息場所となり、霞ヶ浦の周辺を特徴付ける重要な要素となっている。 一方、人間もこれらの水生植物を利用してきた。 しかし、富栄養化が進行し透明度が悪くなると沈水植物は光合成が出来なくなり生育できなくなる。 また、湖岸をコンクリート護岸にしたことで、物理的に植生帯が失われ、また、時に堤防を越えるような激しい風浪による洗掘とが発生するようになった。 この他、水資源開発による水位操作などによって霞ヶ浦の植生帯は大きく失われている(逆に妙岐ノ鼻(浮島湿原)のように一部でも比較的ヨシ原が残っている場所は鳥類を筆頭に生き物の貴重な住処となっていることで有名であり、こうした植物群落が生き物にとって重要な存在であることがわかる)。 そのほか、植物プランクトンも霞ヶ浦にとって重大な影響を与える。 アオコのような植物プランクトンの大発生はその後の遺骸の分解によって湖水の酸欠をもたらし、生物の大量死を招くほか、植物プランクトンの種類や発生状況は動物プランクトンやそれを食べる甲殻類・魚類などの動向をも決定付けている。 鳥類 [ ] 鳥類を特徴付ける大きな要素として霞ヶ浦自体が長い湖岸延長により多くの「水辺」を提供し、葦原などの湖岸植生帯が発達していることが挙げられる。 ・・・・・などの多くの鳥類がそれぞれ生息したり、渡りの途中に飛来したり、繁殖したりしている。 現在の湖岸では、葦原などがだいぶ失われてしまってはいるが、それでも夏になるとがさえずり、などのねぐら入りが見ることが出来る。 そして妙岐ノ鼻のように広い葦原が残っているところではなどの希少なサギ類やなどの他にあまり繁殖地が無い鳥やといった猛禽類などの数少ない生息地になっている。 また、の飛来する江戸崎は関東地方に残されたガンの定期飛来地として貴重な存在といえる。 魚類・甲殻類 [ ] もともと霞ヶ浦は遠浅でプランクトンが増えやすく、海との交流もあり、生育環境や糧となる湖岸植生帯が発達していたことなどから、生産性が高く魚類や甲殻類の豊富な湖であった。 こうした背景から、ワカサギやシラウオ、コイなどの魚が名産品としてもてはやされ、人間の暮らしや文化に深く結びついてきた。 しかし、著しく水質が汚染され、そして近年は外来種が侵入した事により、ワカサギやシラウオ、ハゼ類(ゴロ)やなどの漁獲は近年総じて尻すぼみになっており、かつては普通にいて、食卓もにぎわしていたはずのが姿を消すのではないかと懸念されている。 また、スズキやウナギのように海との交流の産物だった魚も往年の面影はなく、現状は決して良好とはいえない。 タナゴ類は、産卵母貝となる二枚貝類の減少などにより、、、はいずれも減少が著しく、かつて多産したは、ついに本水系ではしたものと考えられている。 霞ヶ浦の淡水魚類相の風物詩でもあるタナゴ類は、今や外来種である、に席巻された感が強い。 特に2000年頃から姿が目立ち始めたオオタナゴは近年タナゴ類のともいえる状況にまで異常繁殖し、北浦・西浦の全水域で定着している。 琵琶湖からの国内移入種と思われるは近年減少傾向である。 昆虫類 [ ] 霞ヶ浦周辺はため池や水田などの水辺が豊富にあったために、かつては無数のが空を埋め尽くしていたという。 このほかにも、周辺の水辺はやといった水棲昆虫が多く生息していたと考えられている。 現在では、こうした昆虫類はだいぶ数を減らしているが、周辺のヨシ原や、妙岐ノ鼻、潮来市の水郷トンボ公園などではトンボや小型の水棲昆虫がまだ多く生息している。 貝類 [ ] の初期頃までは海産の貝類が生息していたといわれる。 しかし、その後の淡水化の流れによって貝類も淡水産のものへと移行してきた。 1963年の常陸川水門の竣工は淡水化を決定的にしたために汽水産のは重要な漁獲種でもあったが姿を消している。 また周辺の水田にはオオタニシ、ヒメタニシ、マルタニシなどが生息。 比較的汚れた水域にはや、きれいな流入河川にはなどが生息している。 などは貴重な自然の恵みとして用水路などでも採取されていた。 現在の霞ヶ浦では、タンカイと呼ばれるカラスガイやなどの二枚貝類は減少が著しく、諸調査によっても生息が極めて希薄となった地点も多い。 、などイシガイ類が辛うじて流入河川や水通しのよい場所を中心に見られる程度である。 原因は富栄養化によって生息するプランクトンが変化し、貝類の餌がなくなってしまったことや微生物による大量の有機物の分解によって酸素が消費され、湖底付近が酸欠になったことなどが考えられている。 シジミについては、マシジミに代わり、とおぼしきもの、中国産のシジミに酷似した淡水シジミなどが増加している(水産会社によって積極的に移入されているという見方がある)。 また、一部では通称「ジャンボタニシ」といわれるが発見されている。 歴史 [ ] 徳川家康 約12万年前のと呼ばれた時代、霞ヶ浦の周辺は関東平野の多くと同じくの海底であり、7万2千年前ごろの最終の始まりとともに徐々に陸地化したと考えられている。 3万年前までが現在のの河道を流れ、その幅広い谷が西浦の主要部を形作った。 2万年前には陸地化とともに出来た川筋によって現在の霞ヶ浦の地形の基礎が形作られた。 1万数千年前のでは、低地がとよばれる海の入り江となったとされる。 現在霞ヶ浦周辺で多く見られるはこの時期に形成されたと考えられている。 からにかけて霞ヶ浦周辺でもが築造されるようになり、当時のと手を結ぶような勢力を持つがあらわれるようになる。 に書かれたという『』によれば、霞ヶ浦は塩を生産したり、多くの海水魚が生息するような内海であった。 現在霞ヶ浦湖畔の浮島村は、当時はであり周囲は海水であった。 その後、鬼怒川や小貝川による堆積の影響から、海からの海水の流入が妨げられるようになり、汽水湖となっていったと考えられている。 末期からにかけての文書や文書には「海夫」とよばれた人々が記されている。 海夫は神祭物を納める代替としてやなどの特権が認められていた。 一方、中世にはが府の職を世襲。 職名を名字として勢力を拡大していき、まで各分家が霞ヶ浦周辺を勢力下においている。 その後、北方のが勢力を南下させ、1591年にが霞ケ浦周辺の地元領主()を一斉に誘殺し、佐竹氏が周辺域を掌握している。 に入り、と呼ばれる一連の事業によって、利根川の水は霞ヶ浦方面にも流れ出すことになった。 このことで、利根川をさかのぼり、を経由してに至るという関東の水運の大動脈が開通する。 霞ヶ浦周辺の産物を江戸へと送る流通幹線となり、霞ヶ浦や利根川はからの物産を運ぶルートにもなっていたため(かし)と呼ばれる港は大いに繁栄した。 一方、霞ヶ浦や利根川沿いの低湿地の開発は近世に入ってからといわれる。 利根川東遷事業とともに鬼怒川や小貝川下流域、の開削とその周辺のなどが大規模に行われるようになっている。 しかし、のの大がひとつの転機をもたらす。 この噴火は利根川の河床を堆積によって急激に上昇させ、利根川の水害を激化することにもつながった。 これに対し、幕府は川の拡幅などによって方面へ流れる水の量を増やす工事を行う。 これが結果として利根川の霞ヶ浦をふくむ利根川下流域に洪水を追いやり、水害を深刻化する原因となる。 また、堆積のほか、当時は小氷期とも呼ばれる冷涼な時代で、海水面が低下していたことも一層の淡水化を促すものだった。 これらの結果、生息する魚介類も海水から汽水・淡水に生息するものへと変化し、漁業も現在のものに近いワカサギやコイ・フナなどを対象とするものが定着していったと考えられている。 近代 [ ] ツェッペリン伯号 LZ 127 明治時代まで、利根川の「主流」は確定していなかった。 しかし、の発生によって霞ヶ浦や銚子方面を利根川主流とする方針が明確になる。 この方針は結果として霞ヶ浦の治水対策を強化していく事情につながる。 しかし、6月に「昭和13年の洪水」といわれる霞ヶ浦の近代治水史上最大の大洪水が発生する。 さらにには「昭和16年の洪水」といわれ大規模な洪水が再び発生する。 これらの二度にわたる大洪水はに起工された利根川増補計画の教訓となり、のちの治水事業にも引き継がれていく。 明治に入ると利根川水系にが就航し、霞ヶ浦にもまもなく航路が開設されるようになる。 当時は銚子経由で東京に船で行くルートなどがあったが、やなどの鉄道が開通すると長距離航路は急速に減衰していき、水運は霞ヶ浦と利根川下流域を結ぶ短・中距離航路へと性格を変えていった。 また、漁業では、有名な帆曳き漁が考案され隆盛を極めた。 農業においては、事業が推進され、-を中心に多くの干拓事業が起工されている。 一方、には現在の茨城県土浦市および阿見町の湖畔一帯に、の航空施設が建設される。 規模は次第に拡張されが設置された。 1929年8月19日には、当時世界最大の飛行船だったのが世界一周中に霞ヶ浦航空隊に寄港。 このときは、見物客が押し寄せ、観衆は30万人に及んだ。 また、1931年8月には、大西洋単独無着陸飛行をはじめて成し遂げた夫妻が北太平洋航路調査のため来日。 に霞ヶ浦を訪れた。 現代 [ ] 鹿島臨海工業地帯 戦前期の洪水の教訓からから工事が着手される。 工事着手後にも1950年8月8日には、利根川の増水の影響で北浦沿岸ので550戸、で66戸が浸水被害を受けている。 対策工事の進展によって海水が遡上しやすくなると、「」など霞ヶ浦の周辺域では農作物被害などのが顕著に発生するようになり、(通称:逆水門)の建設を強く促進した。 常陸川水門は、当初から汽水性のが生息できなくなることなどから特にの強い反対を招いてきたが、水門の完成によって霞ヶ浦の淡水化は決定的になった。 一方、当時の日本はのさなかにあり、それに伴う霞ヶ浦への利水上の要請は霞ヶ浦開発事業へと発展することとなる。 霞ヶ浦開発事業は広域地域開発との長期的な水需要のための利水と治水の目的で行われ、にによって着工され、にが事業を継承。 以来25年の歳月をかけてに総事業費約2864億円で完成した。 これら一連の開発事業は、の開発やなどの開発事業や、首都圏・都市域の拡大と人口増加を背景にした水資源開発の要請と連動しつつ行われてきた。 戦後、市民生活が落ち着いてくるとは単なる住民の移動手段から、水泳やなどの観光航路としての性格をもつようになる。 しかし、から霞ヶ浦のが進むことで水泳場が閉鎖されていき、さらに自動車・道路の普及に伴って水運は衰退し、今では消滅している。 これらの中距離航路のほかに霞ヶ浦の各地ではが存在し、人々の足を担ってきた。 また、道路などが未整備だった時代には、霞ヶ浦の周辺では個人が船を所有し、物や人を運ぶのに欠かせない存在であった。 特にの北部にある「」と呼ばれる地域においては顕著で、江間(エンマ)やとよばれる細かいが縦横無尽に入り組み「水郷」とよばれる独特の景観をかたちづくっていた。 漁業では、ごろまでは豊かな淡水性の魚介類はもとより、スズキなどの汽水域に生息する魚もよく漁獲されていたが、これ以降、霞ヶ浦の漁業は大きく変化していく。 まず、が設置されたことによって、霞ヶ浦は海とのつながりを遮断され、淡水化への道を歩むことになる。 その結果、スズキなどの汽水魚やウナギなどの生活史の中で海から遡上する魚が減少し、それらの漁獲も減っていく。 また、1960年代後半にはそれまでの帆曳き漁にかわり、効率のよいへの転換が進むが、これが逆に資源の枯渇を招き漁獲量は減少していくことになる。 また、淡水性の貝類も1970年前後に漁獲が激減。 1975年には汽水でしか生息できないヤマトシジミの漁業権の補償がなされた。 このころは経済成長が進むのと時を同じくして霞ヶ浦の富栄養化が進行し、アオコの発生や養殖コイの大量死などが発生するようになってくる時期である。 なお、戦前期から霞ヶ浦は干拓が進んできたが、最後の干拓地であったは米の余剰や自然保護、地元漁民などの強い反対運動にあい、の補償金が支払われたままに事実上の中止が決定している。 には、西浦に初の橋となるが開通した。 開通後はしばらくであったが、に無料開放された。 現在も唯一の橋である。 なお、北浦には、、、と(JR東日本)の橋梁の5本が架かっている。 交通 [ ] として、などが存在している(航路についてはを参照)。 湖は広大であるため、湖岸線に到達する方法は無数にある。 公共交通機関を使う場合、常磐線や鹿島線、大洗鹿島線などがその起点となる。 (JR東日本)• より徒歩や霞ヶ浦線• より徒歩• よりバス• より徒歩• より徒歩やバス• より徒歩• より徒歩やバス• よりバス• より徒歩 北浦の場合• 鉾田にあるバスターミナルから行きのバス 流域自治体 [ ] ( 太字は沿岸に接する自治体) 茨城県 [ ]• 2018年4月26日閲覧。 茨城県. 2019年9月5日閲覧。 茨城県. 茨城県. 2019年9月5日閲覧。 「入り」という呼称は、入り江・湾状の地形に対して用いられる。 ここに挙げたもののほかにも小さな湾に対して「〜入り」という名称がついている。 「砂州」• 「5年半ぶりコイ養殖再開 霞ヶ浦・北浦」茨城新聞、2009年4月29日• 茨城県. 2015年5月10日時点のよりアーカイブ。 2019年3月28日閲覧。 『常陸国風土記』の信太郡に、「乗浜の里の東に、あり。 四面絶海にして、山と野交錯れり。 戸は一十五烟、田は七八町余なり。 居める百姓、塩を火きて業と為す。 而して九つの社ありて、言と行を謹諱めり。 」とある。 「北浦も増水」『日本経済新聞』昭和25年8月8日3面• 2019年3月28日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 霞ヶ浦用水事業• 外部リンク [ ]• [ ]• [ ]• [ ].

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霞ヶ浦・桜川の治水と洪水の歴史

霞ヶ浦

名称 [ ] 発行の「標準地名集(自然地名)」では「ケ(大文字)」を用いており、地名としては「霞ケ浦」が正式表記である。 国が「ヶ(小文字)」を、茨城県が「ケ(大文字)」を用いる傾向にある。 「霞ヶ浦・北浦」という表現のように事実上西浦のみを指して使われる場合も多く、定義が混在している。 霞ヶ浦は古代に「流海」(ながれうみ)か「浪逆の海」(なさかのうみ)と呼ばれ、に入って「霞の浦」と歌に詠まれていたが、の「外の海」に対して「内の海」ともいわれた。 「霞ヶ浦」と呼ばれるようになったのはになってからのことである。 語源 [ ] 『』のの条にある「香澄(かすみ)の里」に由来すると言われる。 が付き随う臣下に「海には、すなわち青い波が漂っており、陸には、これまた、赤色の霞がたなびいている。 国がその中にあると私の目にはみえる。 」と言ったことは語源の1つだとされるが 、明確にいつ、誰が名付けたかに関しては不明である。 地理 [ ] 潮来・鹿嶋両市境の列車内から望む北浦 湖面積220. 0は日本第2位 、茨城県最大。 主な水域別の積は次のとおり。 西浦(172平方キロメートル)• 北浦(36平方キロメートル)• 外浪逆浦(6平方キロメートル)• 常陸利根川(6平方キロメートル) なお、部に位置するためは2156. 7平方キロメートルと広く、茨城県の面積の約3. 水際線延長は249. 5キロメートルで、これは日本最大面積の湖である(235. 0キロメートル)の水際線延長を超える。 平均水深は約4メートル、最大水深は約7メートル、年間流下量は約14億、貯留量は約8. 5億立方メートル。 主な流入河川は、、巴川、など。 にあるため、期とによる降水が多く、冬は晴天が多く降水量が少ない。 特に周辺では冬に「筑波颪(つくばおろし)」と呼ばれる強い北西のが吹く。 流域の年間平均は約1,300ミリメートルで全国平均(約1,780ミリメートル)に比べると少なめである。 北にはがあり、南にはが流れ、北西にはの南端にあたる(標高877メートル)を擁している。 周辺は、と低地が入り組んだ場所が多く、筑波山は周辺の最高点であるためなど比較的遠く離れた場所でもよく望むことができる。 西浦と北浦の間の大部分は、海抜30m程度の行方台地となっており、広大な農業地帯である。 元々は「浦」という名前が示すように海の入り江に由来し、や河川堆積物によって出口を閉ざされたである。 そのため、時期や場所によってに違いはあるものの、かつての湖水は塩分が混じるであった。 特にからには、下流の河川改修(浚渫)の影響で海水が遡上し、近年ではもっとも汽水化が進んだ時期だった。 当時を知る人々にとって「汽水湖」という印象が強いのはそのためである。 しかし、にと防止を目的にして竣工した(逆水門)を利用することで淡水化が進行した (詳しくはを参照)。 そのため、現在はほぼとかわらない状況にある。 西浦 [ ] 面積約172平方キロメートル、海抜高度0. 2メートル、最大水深7メートル。 狭義の霞ヶ浦である。 土浦方面に伸びる水域を「土浦入(つちうらいり)」、石岡方面に伸びる水域を「高浜入(たかはまいり)」 、この両者が交わる出島沖の広い水域を「三叉沖(みつまたおき)」と呼ぶ。 他に、「江戸崎入(稲波干拓)」、「甘田入」、「大山入(余郷入)」などがあったが、昭和期の干拓事業により消滅した。 羽賀沼、野田奈、西の洲、本新、八木などの干拓も行われ、湖水域は減少した。 浮島の和田ノ岬、の稲荷ノ鼻、稲敷市古渡の堂崎ノ鼻は、霞ヶ浦(西浦)に伸びてできたである。 北浦 [ ] 面積約36平方キロメートル、海抜高度0メートル、最大水深7メートル。 の水原洲吠崎、の爪木ノ鼻は北浦に伸びで出来た砂嘴である。 外浪逆浦 [ ] 面積約6平方キロメートル、最大水深9メートル。 浪逆浦を1893年に堤防で南北に仕切り、南が外浪逆浦。 内浪逆浦(うちなさかうら)は、外浪逆浦の北にあったが、昭和初期の干拓事業で農地となり消滅、現在は住宅地()となっている。 利用 [ ] 漁業 [ ] 現在の霞ヶ浦で主に漁獲されるのは・・・・・・・(など)・など。 エビ・イサザアミ・ゴロ・コイなどの量が多く、またワカサギやシラウオなどは付加価値が大きいため、重要な魚種となっている。 少量ではあるが、・・・・(セイゴ)・・・・(チャネルキャットフィッシュ)・なども漁獲されている。 ただ、特にブラックバスやペヘレイなどの魚種は現在のところほとんど商品価値がなく、あまり利用されていない。 また、アユは最近になって漁獲されるようになっている。 水揚げされた、、、などを用い、管理された原料・環境でが製造されから始まり魚類のやとして利用されて品として有効利用されている。 全般的に漁獲量はの漁獲量(17,487トン)をピークにして減少傾向が続いていて、には2,000トン台に突入。 の漁獲量は2,416トンであった。 魚種別に見ても減少傾向は変わらず、例えばワカサギはには1,000トンをこえることもあったが、90年代初頭には400 - 500トン前後となり、2000年の漁獲は51トンでしかない。 シラウオも一時300トン前後と回復傾向にあったが98年ごろから100トン前後になり、2000年の漁獲量は95トンだった。 また、漁獲量の約半分を占めるエビ・アミ類についても減少傾向にある。 漁業種別漁獲量を見ると、わかさぎ・しらうおひき網()が36. 定置網は張網ともいわれ、湖岸沿いからもかなりな数を見ることができる。 生産額は2000年の総額が8億6,100万円で、その内訳はエビが半分以上の4億6600万円、シラウオが1億600万円、ハゼが5,500万円、コイが5,000万円、ワカサギが4,200万円となっており、シラウオやワカサギが漁獲量に比べ生産額が高い。 においては、特にコイの養殖が有名で、かつては全国一の生産量を誇っており、などの他のコイ産地にも出荷していた。 しかし、の KHV の流行により壊滅的打撃を受け、翌年には全業者が廃業した。 2009年4月に養殖自粛要請が解除され養殖が再開されることとなった。 この他、浮島付近や江戸崎などでは淡水の養殖も行われている。 2000年の淡水真珠の浜揚量は135キログラムで、これは全国(181キログラム)のうちの約75%になる。 なお、生産額は7億100万円だった。 そして、霞ヶ浦の魚介類は、・・・などに加工されている。 煮干は古くから保存食として定着していたが、佃煮は明治以降に普及したものである。 煮干になる主なものはワカサギ・シラウオ・イサザアミ・エビで、佃煮はワカサギ・ハゼ・イサザアミ・フナ、焼き物はフナ(すずめ焼き)・ワカサギなどである。 焼きワカサギなどは独特の風味であるということで霞ヶ浦の特産品として特に珍重された。 しかし、近年は漁獲量の減少とともに霞ヶ浦産の原料の確保が難しくなっている。 また、行方市商工会はナマズや鯉を使ったというご当地グルメでをしている。 なお、霞ヶ浦の範囲には独立した「海区」が設定されており 、漁業法上、ではなくと同じ扱いを受けるほか、独自の(茨城県霞ヶ浦北浦海区漁業調整委員会)と漁業調整規則(茨城県霞ヶ浦漁業調整規則)を持っている。 近年、常陸川水門を部分的に開門するなどの措置を行うことにより、近隣水域の湖水が汽水と撹拌・浄化され、シジミやスズキなど日本固有種でかつ漁業価値の高い生息魚貝類の豊化の可能性が考えられている。 これはすなわち関連漁業資源の回復を意味するものである。 状況的には静岡県浜名湖 汽水湖 のように、漁業、遊漁業がかなり活性化される可能性を秘めている。 霞ヶ浦も以前は汽水湖だったので原点回帰策とも言える。 汽水化されれば先述のブラックバスやアメリカナマズなどの迷惑外来種も住めなくなり、代わってスズキやクロダイ、ウナギなどの付加価値の高い魚種に入れ替わる。 利水 [ ] 霞ヶ浦はや農業用水・工業用水の水源として使われている。 は茨城県(毎秒37. 23立方メートル)、千葉県(毎秒4. 19立方メートル)、東京都(毎秒1. 50立方メートル)におよび、合計で毎秒42. 92立方メートルとなっている。 しかし、その水質はや総・総などの化学的指標によると良好とはいえない状況が続いている。 また、湖水は茶色がかり、透明度も著しく低い状態となっており、場所によっては浮遊物(ゴミなど)が打ち上げられている場所も少なくなく、心象は決して清浄とはいえない。 にによって開設されたでの飲料用にも使用されているが、他の競馬場やトレーニングセンターとの比較で「水が悪い」と言われ、に水を飲ませるのに苦労するケースがこれまでも多々見られている。 から夏季を中心にの大発生・水道水の異臭・シジミ・養殖ゴイの大量死などが顕著に発生するようになり、にはCOD年間平均が過去最悪の11. これに対し「せっけん運動」などの市民運動が行われたり、に富栄養化防止条例が公布されたりするものの、この時期の強烈なイメージから「汚れた湖」・「死の湖」というイメージが定着するようになってしまう。 1990年代半ば以降、かつてのようなアオコの大発生は観測されていない。 しかし、それは水質が改善されてきたというよりも発生するが変化した結果と考えられている。 こうした霞ヶ浦のの特徴としては、流域が平地で面積も広く水深が浅いので、そもそも自然的にが進行するうえに流域での生産や生活活動の増大によって人為的な富栄養化が重なっている点、平均水深が4メートルと浅いために底泥が舞い上がりやすい点。 夏季の無酸素状態による窒素・リンの底泥からの溶出。 流入河川の総窒素・総リンの濃度が高い点、湖岸植生帯や流域の森林・水路の変化などによっていわゆる「自然浄化力」が低下している点などが挙げられている。 汚濁要因をみてみると、外部要因では生活廃水よりも、山林・田畑・道路などからの流出による面源系のものが多い。 具体的には流域で約40万頭に及ぶ養豚、沿岸地帯にひろがる約1700ヘクタールの蓮田によるものが特徴的とされている。 内部の要因としては底泥からの溶出などがあり、CODやリンで全体の負荷の半分近く、窒素で3割を占めるという。 こうした状況の中で、霞ヶ浦では主に霞ヶ浦を管理する(旧・)によって水質浄化対策が行われてきた。 その筆頭にあげられるのは底泥の事業である。 これは度より西浦の土浦入と高浜入で行われ、度からはその規模が大きくなって、一年間に50億円以上の予算を使い約50万立方メートルを浚渫しているとされている。 浚渫は窒素やリンを溶出させる底泥を除去しようというもので、比較的リンなどを多く含む表面から30センチメートルの底泥を対象にしている。 しかし、浚渫をしても新たな堆積物が積もるため、10年後には再び5 - 7センチメートルの底泥表面が新たに形成されてしまう。 そのため、広大な霞ヶ浦では汚濁後の水質浄化処理をしたとしても、汚濁原因も併せて改善させない限りその効果は限定的であるという指摘もある。 茨城県では、霞ヶ浦流域の住民を対象にした、下水道に接続する工事やを設置する際の工事の助成を行っている。 一方で常陸川水門を部分的に開門し、汽水との撹拌で水質を浄化する試みも模索し始められている。 この際、利水に必要な取水口の位置と汽水拡大範囲の関係確認などが必要であるが、現在考えられうる最も現実的な湖水浄化の手段である。 観光 [ ] 帆曳船 霞ヶ浦はや、などのレジャーに利用されているほか、湖上には・観光帆曳船が運航されている。 に選定されており、高度成長期以前は、独特の水郷景観を特徴とした観光地でもあった。 遊覧船• ラクスマリーナ「ホワイトアイリス号」• 常陽観光「ジェットホイルつくば号」• 観光帆曳船• 夏 - 秋期の金・土・日・祝日のみ運航。 西浦湖畔の観光スポット• 行方市• サンセットフェスタIN天王崎 … 毎年8月に湖畔の天王崎公園で、市内外の団体や個人から寄付を受けて開催されるイベントである。 夕方からステージ上でのイベントが開催され、夜には湖上花火大会が開催される。 打ち上げ数は毎年約5,000発で、1万人前後が訪れる。 かすみがうら市• 観光帆引き船「7月 - 11月までの毎週日曜日」• 帆引きフェスタ「5月のゴールデンウイーク」• 歩崎公園…主に霞ヶ浦に棲息している魚を展示しているがある。 土浦市• …4月中旬に霞ヶ浦湖畔で開催されるマラソン大会。 ランナー数は2万6千人を超え、東京マラソンに次ぐ日本第2位の規模の市民マラソン大会である。 泳げる霞ヶ浦市民フェスティバル…7月の海の日に霞ヶ浦湖畔で開催されるお祭り。 観光帆曳船…7月中旬 - 10月中旬の金、土、日、祝日の午後1時から午後2時半頃まで運航。 稲敷市• 和田公園…チューリップの名所である。 北浦湖畔の主な観光スポット• 生物相 [ ] 霞ヶ浦周辺は筑波山隗を除くとほとんどが台地と低地で構成される平地であるため、古くから農耕地などの開発が進み、それによって追いやられてしまったとされる生物も多い。 しかし、その反面や、などを主体とする二次林を中心に農地や小川・・、そしてなど生活空間を含めたのような環境で生きる生き物たち(例えばやなどのを最高次とし表徴とするようなもの)を豊かにはぐくんできた。 また、から湖、そして湖と姿を変えてきた遠浅で広いである霞ヶ浦の存在もその周辺に住む生き物を特徴付ける要因となっている。 植物 [ ] 霞ヶ浦のように勾配が緩やかな浅い水域のある湖では、陸から水面へと向かう「水辺」に環境条件の勾配があり、それに呼応するように抽水(挺水)植物(やなど)、浮葉植物(やなど)、沈水植物(など)などの多様な植生帯が発達していた。 こうした水生植物の群落は動物にとっても産卵場所・生息場所となり、霞ヶ浦の周辺を特徴付ける重要な要素となっている。 一方、人間もこれらの水生植物を利用してきた。 しかし、富栄養化が進行し透明度が悪くなると沈水植物は光合成が出来なくなり生育できなくなる。 また、湖岸をコンクリート護岸にしたことで、物理的に植生帯が失われ、また、時に堤防を越えるような激しい風浪による洗掘とが発生するようになった。 この他、水資源開発による水位操作などによって霞ヶ浦の植生帯は大きく失われている(逆に妙岐ノ鼻(浮島湿原)のように一部でも比較的ヨシ原が残っている場所は鳥類を筆頭に生き物の貴重な住処となっていることで有名であり、こうした植物群落が生き物にとって重要な存在であることがわかる)。 そのほか、植物プランクトンも霞ヶ浦にとって重大な影響を与える。 アオコのような植物プランクトンの大発生はその後の遺骸の分解によって湖水の酸欠をもたらし、生物の大量死を招くほか、植物プランクトンの種類や発生状況は動物プランクトンやそれを食べる甲殻類・魚類などの動向をも決定付けている。 鳥類 [ ] 鳥類を特徴付ける大きな要素として霞ヶ浦自体が長い湖岸延長により多くの「水辺」を提供し、葦原などの湖岸植生帯が発達していることが挙げられる。 ・・・・・などの多くの鳥類がそれぞれ生息したり、渡りの途中に飛来したり、繁殖したりしている。 現在の湖岸では、葦原などがだいぶ失われてしまってはいるが、それでも夏になるとがさえずり、などのねぐら入りが見ることが出来る。 そして妙岐ノ鼻のように広い葦原が残っているところではなどの希少なサギ類やなどの他にあまり繁殖地が無い鳥やといった猛禽類などの数少ない生息地になっている。 また、の飛来する江戸崎は関東地方に残されたガンの定期飛来地として貴重な存在といえる。 魚類・甲殻類 [ ] もともと霞ヶ浦は遠浅でプランクトンが増えやすく、海との交流もあり、生育環境や糧となる湖岸植生帯が発達していたことなどから、生産性が高く魚類や甲殻類の豊富な湖であった。 こうした背景から、ワカサギやシラウオ、コイなどの魚が名産品としてもてはやされ、人間の暮らしや文化に深く結びついてきた。 しかし、著しく水質が汚染され、そして近年は外来種が侵入した事により、ワカサギやシラウオ、ハゼ類(ゴロ)やなどの漁獲は近年総じて尻すぼみになっており、かつては普通にいて、食卓もにぎわしていたはずのが姿を消すのではないかと懸念されている。 また、スズキやウナギのように海との交流の産物だった魚も往年の面影はなく、現状は決して良好とはいえない。 タナゴ類は、産卵母貝となる二枚貝類の減少などにより、、、はいずれも減少が著しく、かつて多産したは、ついに本水系ではしたものと考えられている。 霞ヶ浦の淡水魚類相の風物詩でもあるタナゴ類は、今や外来種である、に席巻された感が強い。 特に2000年頃から姿が目立ち始めたオオタナゴは近年タナゴ類のともいえる状況にまで異常繁殖し、北浦・西浦の全水域で定着している。 琵琶湖からの国内移入種と思われるは近年減少傾向である。 昆虫類 [ ] 霞ヶ浦周辺はため池や水田などの水辺が豊富にあったために、かつては無数のが空を埋め尽くしていたという。 このほかにも、周辺の水辺はやといった水棲昆虫が多く生息していたと考えられている。 現在では、こうした昆虫類はだいぶ数を減らしているが、周辺のヨシ原や、妙岐ノ鼻、潮来市の水郷トンボ公園などではトンボや小型の水棲昆虫がまだ多く生息している。 貝類 [ ] の初期頃までは海産の貝類が生息していたといわれる。 しかし、その後の淡水化の流れによって貝類も淡水産のものへと移行してきた。 1963年の常陸川水門の竣工は淡水化を決定的にしたために汽水産のは重要な漁獲種でもあったが姿を消している。 また周辺の水田にはオオタニシ、ヒメタニシ、マルタニシなどが生息。 比較的汚れた水域にはや、きれいな流入河川にはなどが生息している。 などは貴重な自然の恵みとして用水路などでも採取されていた。 現在の霞ヶ浦では、タンカイと呼ばれるカラスガイやなどの二枚貝類は減少が著しく、諸調査によっても生息が極めて希薄となった地点も多い。 、などイシガイ類が辛うじて流入河川や水通しのよい場所を中心に見られる程度である。 原因は富栄養化によって生息するプランクトンが変化し、貝類の餌がなくなってしまったことや微生物による大量の有機物の分解によって酸素が消費され、湖底付近が酸欠になったことなどが考えられている。 シジミについては、マシジミに代わり、とおぼしきもの、中国産のシジミに酷似した淡水シジミなどが増加している(水産会社によって積極的に移入されているという見方がある)。 また、一部では通称「ジャンボタニシ」といわれるが発見されている。 歴史 [ ] 徳川家康 約12万年前のと呼ばれた時代、霞ヶ浦の周辺は関東平野の多くと同じくの海底であり、7万2千年前ごろの最終の始まりとともに徐々に陸地化したと考えられている。 3万年前までが現在のの河道を流れ、その幅広い谷が西浦の主要部を形作った。 2万年前には陸地化とともに出来た川筋によって現在の霞ヶ浦の地形の基礎が形作られた。 1万数千年前のでは、低地がとよばれる海の入り江となったとされる。 現在霞ヶ浦周辺で多く見られるはこの時期に形成されたと考えられている。 からにかけて霞ヶ浦周辺でもが築造されるようになり、当時のと手を結ぶような勢力を持つがあらわれるようになる。 に書かれたという『』によれば、霞ヶ浦は塩を生産したり、多くの海水魚が生息するような内海であった。 現在霞ヶ浦湖畔の浮島村は、当時はであり周囲は海水であった。 その後、鬼怒川や小貝川による堆積の影響から、海からの海水の流入が妨げられるようになり、汽水湖となっていったと考えられている。 末期からにかけての文書や文書には「海夫」とよばれた人々が記されている。 海夫は神祭物を納める代替としてやなどの特権が認められていた。 一方、中世にはが府の職を世襲。 職名を名字として勢力を拡大していき、まで各分家が霞ヶ浦周辺を勢力下においている。 その後、北方のが勢力を南下させ、1591年にが霞ケ浦周辺の地元領主()を一斉に誘殺し、佐竹氏が周辺域を掌握している。 に入り、と呼ばれる一連の事業によって、利根川の水は霞ヶ浦方面にも流れ出すことになった。 このことで、利根川をさかのぼり、を経由してに至るという関東の水運の大動脈が開通する。 霞ヶ浦周辺の産物を江戸へと送る流通幹線となり、霞ヶ浦や利根川はからの物産を運ぶルートにもなっていたため(かし)と呼ばれる港は大いに繁栄した。 一方、霞ヶ浦や利根川沿いの低湿地の開発は近世に入ってからといわれる。 利根川東遷事業とともに鬼怒川や小貝川下流域、の開削とその周辺のなどが大規模に行われるようになっている。 しかし、のの大がひとつの転機をもたらす。 この噴火は利根川の河床を堆積によって急激に上昇させ、利根川の水害を激化することにもつながった。 これに対し、幕府は川の拡幅などによって方面へ流れる水の量を増やす工事を行う。 これが結果として利根川の霞ヶ浦をふくむ利根川下流域に洪水を追いやり、水害を深刻化する原因となる。 また、堆積のほか、当時は小氷期とも呼ばれる冷涼な時代で、海水面が低下していたことも一層の淡水化を促すものだった。 これらの結果、生息する魚介類も海水から汽水・淡水に生息するものへと変化し、漁業も現在のものに近いワカサギやコイ・フナなどを対象とするものが定着していったと考えられている。 近代 [ ] ツェッペリン伯号 LZ 127 明治時代まで、利根川の「主流」は確定していなかった。 しかし、の発生によって霞ヶ浦や銚子方面を利根川主流とする方針が明確になる。 この方針は結果として霞ヶ浦の治水対策を強化していく事情につながる。 しかし、6月に「昭和13年の洪水」といわれる霞ヶ浦の近代治水史上最大の大洪水が発生する。 さらにには「昭和16年の洪水」といわれ大規模な洪水が再び発生する。 これらの二度にわたる大洪水はに起工された利根川増補計画の教訓となり、のちの治水事業にも引き継がれていく。 明治に入ると利根川水系にが就航し、霞ヶ浦にもまもなく航路が開設されるようになる。 当時は銚子経由で東京に船で行くルートなどがあったが、やなどの鉄道が開通すると長距離航路は急速に減衰していき、水運は霞ヶ浦と利根川下流域を結ぶ短・中距離航路へと性格を変えていった。 また、漁業では、有名な帆曳き漁が考案され隆盛を極めた。 農業においては、事業が推進され、-を中心に多くの干拓事業が起工されている。 一方、には現在の茨城県土浦市および阿見町の湖畔一帯に、の航空施設が建設される。 規模は次第に拡張されが設置された。 1929年8月19日には、当時世界最大の飛行船だったのが世界一周中に霞ヶ浦航空隊に寄港。 このときは、見物客が押し寄せ、観衆は30万人に及んだ。 また、1931年8月には、大西洋単独無着陸飛行をはじめて成し遂げた夫妻が北太平洋航路調査のため来日。 に霞ヶ浦を訪れた。 現代 [ ] 鹿島臨海工業地帯 戦前期の洪水の教訓からから工事が着手される。 工事着手後にも1950年8月8日には、利根川の増水の影響で北浦沿岸ので550戸、で66戸が浸水被害を受けている。 対策工事の進展によって海水が遡上しやすくなると、「」など霞ヶ浦の周辺域では農作物被害などのが顕著に発生するようになり、(通称:逆水門)の建設を強く促進した。 常陸川水門は、当初から汽水性のが生息できなくなることなどから特にの強い反対を招いてきたが、水門の完成によって霞ヶ浦の淡水化は決定的になった。 一方、当時の日本はのさなかにあり、それに伴う霞ヶ浦への利水上の要請は霞ヶ浦開発事業へと発展することとなる。 霞ヶ浦開発事業は広域地域開発との長期的な水需要のための利水と治水の目的で行われ、にによって着工され、にが事業を継承。 以来25年の歳月をかけてに総事業費約2864億円で完成した。 これら一連の開発事業は、の開発やなどの開発事業や、首都圏・都市域の拡大と人口増加を背景にした水資源開発の要請と連動しつつ行われてきた。 戦後、市民生活が落ち着いてくるとは単なる住民の移動手段から、水泳やなどの観光航路としての性格をもつようになる。 しかし、から霞ヶ浦のが進むことで水泳場が閉鎖されていき、さらに自動車・道路の普及に伴って水運は衰退し、今では消滅している。 これらの中距離航路のほかに霞ヶ浦の各地ではが存在し、人々の足を担ってきた。 また、道路などが未整備だった時代には、霞ヶ浦の周辺では個人が船を所有し、物や人を運ぶのに欠かせない存在であった。 特にの北部にある「」と呼ばれる地域においては顕著で、江間(エンマ)やとよばれる細かいが縦横無尽に入り組み「水郷」とよばれる独特の景観をかたちづくっていた。 漁業では、ごろまでは豊かな淡水性の魚介類はもとより、スズキなどの汽水域に生息する魚もよく漁獲されていたが、これ以降、霞ヶ浦の漁業は大きく変化していく。 まず、が設置されたことによって、霞ヶ浦は海とのつながりを遮断され、淡水化への道を歩むことになる。 その結果、スズキなどの汽水魚やウナギなどの生活史の中で海から遡上する魚が減少し、それらの漁獲も減っていく。 また、1960年代後半にはそれまでの帆曳き漁にかわり、効率のよいへの転換が進むが、これが逆に資源の枯渇を招き漁獲量は減少していくことになる。 また、淡水性の貝類も1970年前後に漁獲が激減。 1975年には汽水でしか生息できないヤマトシジミの漁業権の補償がなされた。 このころは経済成長が進むのと時を同じくして霞ヶ浦の富栄養化が進行し、アオコの発生や養殖コイの大量死などが発生するようになってくる時期である。 なお、戦前期から霞ヶ浦は干拓が進んできたが、最後の干拓地であったは米の余剰や自然保護、地元漁民などの強い反対運動にあい、の補償金が支払われたままに事実上の中止が決定している。 には、西浦に初の橋となるが開通した。 開通後はしばらくであったが、に無料開放された。 現在も唯一の橋である。 なお、北浦には、、、と(JR東日本)の橋梁の5本が架かっている。 交通 [ ] として、などが存在している(航路についてはを参照)。 湖は広大であるため、湖岸線に到達する方法は無数にある。 公共交通機関を使う場合、常磐線や鹿島線、大洗鹿島線などがその起点となる。 (JR東日本)• より徒歩や霞ヶ浦線• より徒歩• よりバス• より徒歩• より徒歩やバス• より徒歩• より徒歩やバス• よりバス• より徒歩 北浦の場合• 鉾田にあるバスターミナルから行きのバス 流域自治体 [ ] ( 太字は沿岸に接する自治体) 茨城県 [ ]• 2018年4月26日閲覧。 茨城県. 2019年9月5日閲覧。 茨城県. 茨城県. 2019年9月5日閲覧。 「入り」という呼称は、入り江・湾状の地形に対して用いられる。 ここに挙げたもののほかにも小さな湾に対して「〜入り」という名称がついている。 「砂州」• 「5年半ぶりコイ養殖再開 霞ヶ浦・北浦」茨城新聞、2009年4月29日• 茨城県. 2015年5月10日時点のよりアーカイブ。 2019年3月28日閲覧。 『常陸国風土記』の信太郡に、「乗浜の里の東に、あり。 四面絶海にして、山と野交錯れり。 戸は一十五烟、田は七八町余なり。 居める百姓、塩を火きて業と為す。 而して九つの社ありて、言と行を謹諱めり。 」とある。 「北浦も増水」『日本経済新聞』昭和25年8月8日3面• 2019年3月28日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 霞ヶ浦用水事業• 外部リンク [ ]• [ ]• [ ]• [ ].

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