平成は何年間ありましたか。 池上彰さん「誰もが迷った30年」|平成

明治、大正、昭和、平成って何年まであるの?そもそも西暦って何?

平成は何年間ありましたか

所長の髙田です。 平成最後の日になりました。 人それぞれ色々な考えはあるでしょうが、唯一自分自身の自慢出来る点 として、恨みつらみを残さず、感謝を忘れないことがありますので、私の産業医 としての原点 である産業医実務研修センターで大変お世話になった 3名の先生について の続きの話を、平成最後の日の感謝の備忘録として 書いておきます。 お一人目は先日のブログで書いた、当時のセンター長の森晃爾先生。 お二人目が、私の当時の指導医であった日野義之先生です。 当時研修医が終わったばかりで、調子に乗ってどこか斜めに構えていた 自分のことを、何かにつけて御心配いただきました。 話は少しそれますが、私はいわゆる『労働衛生の三管理』については、 全てしっかりと考え力を身に付けたいと、今でも思っています。 ただ産業医の研修というと、どうしても『作業管理』と『作業環境管理』が 主となる傾向があり、『健康管理』については、メンタルヘルス対策や 長時間労働対策、定期健康診断結果に基づく就業措置、喫煙対策に 偏る傾向があります。 定期健康診断そのものの研修、つまり血液検査の解釈や、心電図判読、 胸部 X線読影、保健指導については、産業医研修では残念ながら、 ほぼ重視されていません。 個人的には、日本の産業保健における歪な状態であると思っています。 どうしてこのような歪な状態になっているかというと、日本の産業医で最も多い 日本医師会認定産業医の場合は、臨床医が産業医研修を受ける場合が 殆どですので、定期健康診断の法定項目くらいであれば、ベーシックな知識 として、当然身に付けているこが多いと考えられているからでは、と思います。 しかし臨床医といっても、様々な分野の医師がいますし、何より栄養学だけ でなく、傾聴や心理学の知識経験も必要とする保健指導は、臨床医にも 難しいのではと思います。 また 私のような、臨床研修が終わってすぐに産業保健の世界に入る医師が、 果たして全員、定期健康診断の法定項目に関する臨床力を、身に付けて いるかというと、甚だ疑問だとも思います。 「定期健康診断結果は健診業者が作るから、産業医はその結果を見て 就業判定が出来ればいい」 と言っていた産業医大出身の産業医の先生もいましたが、自分自身で 心電図判読や胸部 X線読影が出来ないと、判読医・読影医の所見判定に 込められた機微を汲み取れないことが、ままあります。 従って、定期健康診断に関する臨床力が、結果的に軽視されている現在の プロフェッショナル産業医養成の流れには、個人的には強い疑問を抱いて おります。 日野先生は、その作業管理・作業環境管理のバリバリのスペシャリスト。 今でこそ、一度一緒に職場巡視をさせていただき、自分自身の成長を確認 してみたいという気持ちが強いですが、当時は臨床力を軽視する感じに、 正直なところ反発感が強くありました。 日野先生も恐らくそのことを感じとられていたと思いますので、企業実習に 行った帰りなどによく声をかけていただきました。 ただ、臨床力を軽視する風潮に反発感はあったものの、当時は職場巡視を どういう目線で行えばよいか全く分からなかったので、日野先生のことを スペシャリストとして尊敬していました。 そのスペシャリストぶりは、産業医活動中だけでなく、日頃の生活から、 そういった態度や目線を忘れないことから培われたのだろうと思わせられた 会話を覚えています。 「高田先生はハワイに行ったことある?」 「はい。 去年初めて行きました。 」 「何か気づいたことがあった?」 「1日中お祭り騒ぎのような雰囲気と開放感が凄く良かったです」 「ダメだよー。 僕はハワイに行った時も、常に危険なところが無いかを注意して いたよ。 そういう目線は常に持っていないと。 」 「はあ。 」 正直言って、ハワイまで行ってそれは無いだろうと思いましたし、 それはもう変人の領域だろうと、生意気にも思ってしまいました。 ただ今は、空港まで行く電車と車掌さんの指差し呼称を注意深く観察し、 空港でトランクを運ぶ人の姿勢に目が行き、飛行機の中ではロングフライト 血栓症のリスクはもちろん、 CAさんの休憩シフトや配膳時の姿勢が気になり、 ハワイに着いたら治安はもちろん、強い冷房による室内の温度と外気温の 差による自律神経への影響や、ホテルの高層階の気圧変化の影響が 気になるなど、ハワイ旅行に限らず無意識のうちに起床時から就寝前まで、 巡視目線で日常生活を見るようになってしまっている自分がいます。 あれから 15年経過した今、自分も若い産業医の先生に。 当時の日野先生と 同じようなことを言うかもしれません。 産業医のスタンスとしては、今も違いがあるかもしれませんが、 マスコミに 露出する若い産業医が増え、産業医学の自称スペシャリストが 氾濫している 今だからこそ、産業医を奥深く知る日野先生には、令和の時代 になっても 産業医の良心として、若き産業医に御指導いただく事を願っています。 最後の三人目は、菅裕彦先生。 正確には当時、産業医実務研修センターに居た先生ではなく、 私がセンターから半年間出向していた健診機関にいらっしゃった先生です。 健診機関では前回のブログに書いたように巡回健診に従事していましたが、 週 1回は嘱託産業医活動に同行して勉強していました。 その時によくご一緒させていただいたのが菅先生でした。 菅先生は、この偏屈な私が唯一「リアル産業医」だと思う先生です。 産業医大の御出身で、もともと消化器内科医として御勤務され、その後 産業医になられており、健康管理の知識を軽視することなく、労働衛生の 三管理について造詣が深い先生でした。 そういった事もありますが、一番感銘したのは、その熱い気持ちでした。 ある時、菅先生の産業医活動に同行し、健康講話を見学しました。 その後、帰り道の電車の駅で菅先生と話しました。 「高田先生、気づいた?」 「何がでしょうか?」 「僕は今日の講話の配布資料を、参加人数より多めに配ったんだよね。 」 「はい。 」 「でも、帰る時に配布資料は全部無くなっていたでしょ?」 「あー・・・はい。 」 「あれは会社の人が今日出席しなかった人のために持って帰ったんだよ。 だからいつも僕は多めに配布資料を作ってくるんだよ。 」 「・・・。 」 健康講話後に、配布資料が机の上にいくつか残っていたので、 後片付けの時に、自分が回収して持って帰ってしまっていたんです。 その時の菅先生の嬉しそうな顔を見ると、正直に言えずに黙ってしまいました。 平成最後の日に告白して懺悔します。 あの時は正直に言わないで申し訳ありませんでした。 でも菅先生のそういう熱い気持ちが大好きでした。 当時、自分が体調を崩して 1週間ほど休んでしまった時も、いつも優しく 気にかけてくださいました。 休みの日はお子さんの運動会で良い写真をとるために、午前 6時から小学校 に並んで良い場所をとるんだと嬉しそうにおっしゃられていた、ご家庭を大事に される子煩悩なお父さんぶりも印象的です。 会社訪問時はいつも腰が低く、企業の皆さんの信頼がよく分かりました。 一緒に作業着を着て商用車で産業医訪問し、時間があまりない中、 コンビニで買った缶コーヒーで車の中で休憩して話したこともありました。 当時、嘱託産業医をやりたいという漠然とした気持ちはありましたが、 具体的なことは想像もつきませんでした。 ただ今は作業着を着て中古の軽自動車に乗り、車の中で一人缶コーヒーを 昼食代わりに飲みながら、産業医訪問を繰り返す毎日です。 結局、当時の菅先生と同じような形になりました。 というより、あの時の菅先生の姿を追いかけているのかもしれません。 菅先生には一生追いつける気はしませんが、熱い気持ちについては、 追いつき追い越せるよう、これからも産業医活動をしていきたく思います。 当時 1年間ながらご指導いただいた、森先生、日野先生、菅先生の 3名の 先生から受けた影響は、自分にとってはとてつもなく大きいです。 いつまで経っても 未熟者なので、そのような強い影響を他の若き産業医に 与えることは、自分には無理だと思います。 ただこの 10年近く、色々助言をしてきた元々医療職ではなかったカウンセラー の方が居ますが、その方が大きな飛躍を遂げようしています。 その方には業務面のアドバイスをしてきましたが、とにかく謙虚に、 絶対思い上がってはいけない、相手の幸せを考えれば間違えることはない、 ということだけはしつこく言い続けています。 そのことは、自分が 3名の先生方に自然と教えられてきたことだと思います。 平成最後の日に、 3名の先生方に改めて感謝し、そして今一度、 謙虚に、 思い上がらず、相手の幸せを考えるように自分自身を戒め、 明日からの令和の時代を迎えたいと思います。 皆様にとって令和が良い時代になりますよう祈念し、そしてこれからも 社会に少しでもに貢献出来るよう、自分自身頑張っていきます。 そして最後に、天皇皇后両陛下本当にありがとうございました。 平成 31年 4月 30日.

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平成の30年間で変化したこと(1)労働組合の影響力・組織率の低下

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「自殺は自分には関係のないことと思っていました。 私は昭和の終わりは大学病院で看護師をしていたんですね。 そうすると、自殺未遂で脳挫傷で搬送される方もいたんですけれども。 まだ当時の私はどこかで、『この人は自殺をしようとして、死にきれなかったんだな』と思って。 そして『あとに不運にも交通事故に遭った人が控えているんだけどな』という気持ちを抱えながら、手術に臨んでいました」(馬場さん) 平成中期 動き始めた自殺対策 自殺を「他人事(ひとごと)」とする世論が未だ根強かった平成の初め。 しかし、平成の中期、日本の自殺対策は大きな転換点を迎えます。 平成9年の山一証券廃業をはじめ、金融機関が相次いで破綻し、深刻な経済危機に突入。 中小企業の倒産、社員のリストラが相次ぎました。 平成10年になると中高年の自殺が急増し、年間の自殺者数は3万人を突破します。 そんななか、平成12年、一冊の文集が発表されました。 タイトルは、『自殺って言えない』。 親を自殺で亡くした子どもたちが、誰にも言えなかった心の内を初めて言葉にしたものです。 「言ってはいけないと思っていたことを、言わなければならないという引き裂かれるような状況のなかで、でも、腹をくくって語ると決めたら、正々堂々とマスコミに対しても声を出した。 彼らが踏みだした一歩を、その一歩だけにとどめるのか。 それとも、社会としてそれをしっかりと引き継いでいくのか。 ある意味、球をわれわれに投げられたと感じました。 本当にど直球の、ど真ん中の球を彼らは投げてくれた」(清水さん) 国を動かした自殺対策基本法の成立 根岸さんたちが文集を発表したころ、全国に先駆けて自殺対策に乗り出したのが秋田県です。 うつ状態にある人への適切な接し方を学ぶなど、地域の人々の力を活用する新しい取り組み。 モデル事業を行った地域では実施前と比べて自殺率が47%減少しました。 当時は「自殺したいほど深刻な状況にある人たちに素人が手を出すべきではない」、「病気の問題なのだから、医者に行って治すべき。 なぜ社会全体でやる必要があるのか?」といった声もありました。 しかし、秋田大学医学部でモデル事業の中心を担い、現在は自殺総合対策推進センターのセンター長を務める本橋豊さんは、地域が力を合わせて取り組むことが重要だと考えました。 「さまざまな社会的な背景要因があって、それが精神疾患などの最終的な状態に影響しているのであるから、もっと上流のところのいろいろな要因をきちんと考えなきゃいけない。 それはお医者さんだけの仕事ではなくて、さまざまな専門家、それから一般の方々が関与しなくてはいけない。 そういう意味では、地域全体で力を合わせてやるべき仕事」(本橋さん) 一方、NPOを立ち上げた清水さんは、自殺対策の法律を作ろうと国に働きかけました。 法制化を求める署名活動も行い、2か月間で10万人の署名を集めます。 清水さんが目指したのは、自殺対策を国レベルで進めることでした。 「自殺対策をボランティアレベルではなくて、社会全体で進めていく。 その枠組みを作るとなれば、当然政治に対して働きかけというのは不可欠です。 いかにして社会的な枠組みを作るか。 つまり、法律を作るか、ということを考えていました」(清水さん) シンポジウムに登壇する清水さん(資料提供:NPO法人 ライフリンク) 平成17年、参議院議員会館で開かれたシンポジウムで、清水さんは、国が自殺対策を進めることの必要性を強く訴えました。 当時の政府や関係省庁は自殺対策に対して慎重でしたが、出席した厚生労働大臣は、初めて政府として取り組む意志を示しました。 このことをきっかけに、超党派の国会議員らの活動も活発化し、平成18年、自殺対策基本法が成立しました。 平成最後の10年 平成最後の10年間は、法律に基づいた具体的な実践へと進みます。 清水さんたちがまず始めたのは、自殺の実態を把握するための調査でした。 亡くなった人はどのような悩みを抱えていたのか、遺族への詳細な聞き取りを行ったところ、職場や家庭の問題、経済的困難など、平均すると4つの要因が重なり、自殺に至っていたことが分かりました。 「半年ぐらい経ったときには私もいっぱいいっぱいになっていて。 何の心当たりもなく、ただただ涙があふれちゃってたまらない日がありましたね。 でもライフリンクの事務所で清水さんと会ったとき、『本橋先生と、足立区で1人で頑張ってる馬場さんを2人で支援しようねって話をしたんだよ』っていう話を聞いてすごくうれしくて。 本橋先生からはよく、自殺は孤立の病だっていうふうに伺っていたんですけれども、このときに自分がすごく感じたのは、『支援者が孤立しないこと』。 いかに味方を増やして、仲間を増やして、一緒に横並びで進めるか。 難しいことなんですけど、それをやっていかないと、この対策は進まないと感じました」(馬場さん) 自殺対策 のこされた課題 その後、平成28年に法改正が行われ、全国すべての自治体に自殺対策の計画が義務づけられました。 平成24年、年間の自殺者数は、15年ぶりに3万人を下回り、減少を続けていますが、10代と20代の自殺率は高いまま。 現在は若者の自殺が大きな課題となっています。 これまで自殺対策に携わってきた4人に、平成がのこした「宿題」を書いてもらいました。 清水さんが書いた言葉は「必要としている一人ひとりに届ける」。 「死にたいというよりは、今存在している自分を消してしまいたい、というような思いの若者が多い。 ですので、若者の自殺対策といったときには、誰もがこの社会で生きていこうと、自分自身であることに納得しながら、満足しながら生きられる、そういう地域や社会をどう作っていくか。 年間の自殺者数が減っていることで満足するのではなくて、裏を返すと届いてない人がまだ2万人を超えるということなので。 しっかりと、必要としている一人ひとりに届けていく必要があると思います」(清水さん) 根岸さんは「今できることを重ねて形に、つながりに」。 「文集『自殺って言えない』のことや、基本法ができたり、たくさんのご遺族が聞き取り調査に協力してくださったりということが重なって、今できることが増えてきていると思うんですね。 それをさらに重ねて形にしていくこと。 それは、私たちだけということではなくて、今まだ関心がない人とか、まだ連携がない人たちとも一緒につながりながら広げていくことができたらなと思います」(根岸さん) 本橋さんは希望を込めて「他人事(ひとごと)から我が事へ」。 「共感していく。 それは支援される側も支援する側も、お互いに人間として生きていくための共感力みたいなものを、われわれはもっと養っていく必要があるのではないか。 直接的な自殺対策ではありません。 ただ、そういう社会のあり方をわれわれが常に考えていくときに、『他人事から我が事へ』と考えられるとみんな少し変わっていって、日本の自殺率の底下げにつながるのでは、という希望を込めて、このことばを掲げさせていただきました」(本橋さん) 馬場さんは自身の取り組みについて「ずっと関わっていく」と記しました。 「今まで約10年間ずっと抱えてこの仕事を手放さずやってきたんですけれども、どこかでもしかしたら、部が変わったりして手放さなきゃいけないときが来るかもしれない。 でも、今までみんなが関わり続けてずっとその人たちとつながっているように、もし異動があったとしても関わり続けて、一緒にその場所でこの対策を進めていきたいなと思いました」(馬場さん).

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平成16年度の「終了式」がありました。: 秋篠学のブログ

平成は何年間ありましたか

平成は何年まで?西暦なら何年から何年までになる? ではまず、平成は何年までかや西暦では何年から何年までが平成という時代かを、おさらいしておきましょう。 平成は31年4月30日まで! まず、平成は何年までにするかという事は、天皇陛下が皇太子に位を譲る、 譲位 じょうい の意向を受けて時期が議論されました。 その結果、最終的に日程が 平成31年4月30日に決定し、 平成は31年までという事になりました。 因みに、平成を何年までにするかを機論した際、 切りの良い平成30年12月31日までを平成とする案も、有力候補としてあったのだそうです。 その場合、2019年1月1日に新天皇が即位し、平成は30年までになる予定でしたが、諸々の事情により、4月30日の案が採用され、平成は31年までになった訳ですね。 平成は西暦でいうと1989年から2019年まで! さて、そんなわけで平成という時代は、天皇陛下の譲位により31年までになる訳ですが、 西暦でいうと何年から何年までが平成かも併せてご紹介しておきましょう。 まず、昭和天皇の崩御により、 平成は1989年1月7日にスタートました。 そして、平成31年は西暦では2019年なので、 平成という時代は1989年から2019年までということになりますね。 バブルが弾け、経済の不透明感が漂った平成は、阪神大震災や東日本大震災をはじめ、多くの災害に見舞われた時代でもありました。 一方、スマホやネットにIT技術が飛躍的に発達したおかげで、 日常生活が劇的に便利になった事も平成という時代の特筆すべきポイントですね。 スポンサードリンク 平成以前の近年の元号は何年まであった? ということで、 平成は何年までかの答えは31年までですが、平成以前の近代の元号はそれぞれ何年まであり、どんな時代だったのでしょうか。 昭和は何年まででどんな時代だったか 先ず、平成の前の元号の 昭和は何年までだったかですが、なんと 64年まであり、歴史上、最も長い元号なんです。 尚、昭和は西暦では、1926年12月25日に始まり、1989年1月7日までということになります。 昭和といえば、初期の軍国主義、太平洋戦争から昭和20年の終戦を経て、戦後の復興、高度経済成長からバブル景気へと向かった時代でもあります。 1989年1月7日に天皇崩御に伴い、平成になるまでの62年と14日間という長期間続いた昭和は、 実に波乱万丈な歴史がありました。 大正は何年まででどんな時代だったか 昭和の一つ前の元号の 大正は何年までだったかというと、昭和よりかなり短く 15年まででした。 西暦でいうと1912年7月30日から1926年12月25日までが大正時代で、期間的には短いものの、様々な大事件があった激動の時代でもあります。 大正時代は大正デモクラシーといわれるように、現代へとつながる 民主主義の基盤が形成されました。 また、大正時代は 女性の社会進出が飛躍的に進んだ時代でもあり、洋服を颯爽と着こなす女性たちはモガ モダンガール と呼ばれたのだそうです。 一方、大正時代には、日本は直接参戦しなかったものの、第一次世界大戦が勃発した他、米騒動、関東大震災などの劇的な出来事があった時代でもあります。 明治は何年まででどんな時代だったか 日本が近代国家としての第一歩をスタートさせた明治時代が何年まであったかですが、 明治は45年まであった時代です。 明治時代は、西暦1868年1月25日から1912年7月30日まで約44年と6カ月余りの期間続いた時代で、明治天皇の即位により始まりました。 江戸時代の終焉始まった明治時代は、江戸が東京と改名されて天皇中心の国家体制が築かれ、長い鎖国の後、鹿鳴館に代表される 日本の西洋化が始まった時代でもありました。 また、明治時代には、新政府が進めた版籍奉還、廃藩置県などの改革により、 劇的に社会構造が変化するとともに、軍国化も急速に進みました。 1894年の日清戦争、1902年の日露戦争という外国との戦争も経験し、 近代日本は、様々な問題を抱えつつも、列強国の仲間入りを果たすことになった訳ですね。 スポンサードリンク 平成が何年までかが決まった経緯は? さて、平成と平成以前の各元号が何年までかはここまで説明したとおりですが、平成が終わり新しい元号に改まるに至る経緯もご紹介しておきましょう。 天皇の生前退位により元号が改まることに! 平成が31年4月30日で終わることになったのは、前述のとおり 天皇の生前退位に伴うものです。 現代の日本の法律では、 一世一元制というシステムが採用されていて、平成、昭和などの元号は 「皇位の継承があった場合に限り改める」と定められています。 つまり、 新しい天皇が即位すると元号も新しくなるというわけですね。 尚、平成は天皇が生前に退位して皇太子に位を譲ることで改元となりましたが、 明治、大正、昭和に関しては天皇の崩御に伴い皇位が継承されました。 因みに、生前退位は、平成以前では江戸時代後期の1817年、光格天皇が行われたのが最後で、今回、 約200年ぶりの出来事なのだそうですよ。 日程の決定は他の行事との兼ね合いの影響! さて、平成が何年までかを決定する際、退位と即位のタイミングで考慮されたのが他の行事との兼ね合いです。 先に触れた通り、当初、平成を何年までにするかについては、 平成30年12月31日に天皇退位、翌1月1日に新天皇即位が有力だったんです。 もしこの案が採用されていた場合、平成は30年までになる予定でした。 ですが、年末年始は皇室の行事が続くため、宮内庁が不適当として、 翌年の3月31日退位、4月1日即位が代替案として出されました。 ですがその後、3月に予算審議案、4月に統一地方選挙があることから、二転三転した結果、最終的に他の行事のない 2019年4月30日退位、5月1日即位に落ち着いたという経緯があります。 スポンサードリンク 平成が何年までかの決定に関連した休日とは? ところで、平成が終わることで、直接、私たちの生活に関連してくるのは、やはり天皇誕生日や即位関連の祝日ですよね。 ということで、平成が何年までかの決定に関連した2019年の祝日事情もご紹介しておきましょう。 2019年の天皇誕生日は国民の祝日ではない! 平成を何年までにするかについては、最終的に2019年4月30日に決定しましたが、 一年の途中で元号が変わり、新しい天皇が即位ことから天皇誕生日の扱いが気になるところですよね。 ところで、2019年5月1日即位の新天皇徳仁親王の誕生日は2月23日ですが、2019年は、まだ即位していないタイミングのため 祝日にはなりません。 また、平成の天皇誕生日であった12月23日も、 2019年はすでに退位以降の日程になるため、祝日にはならないとのことなんです。 ということで、2020年以降は2月23日が新しく天皇誕生日になるものの、 2019年は天皇誕生日が祝日にはならない年ということになりますね。 因みに、旧天皇誕生日は、 昭和天皇の誕生日の4月29日が昭和の日、明治天皇の誕生日の11月3日が文化の日としてそれぞれ祝日になっています。 ということで、平成の天皇誕生日の12月23日は祝日ではありませんが、世論や経済効果などの諸事情を鑑みつつ、祝日になる可能性もあるようですね。 2019年のGWは新天皇の即位で10連休に! ということで、天皇誕生日がなく、通常の国民の祝日が1日少なくなる2019年ですが、新天皇の即位の礼がある5月1日が祝日。 そして、現行の法律では 祝日に挟まれた平日は国民の休日にするという決まりがあるため、2019年のGWのカレンダーにこれを当てはめた場合、以下のようになります。

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